九 もののあはれ、という存在論について。

 自分というものはそこにはなく、関係というものが揺らぎながら動いていき、自分ないし自分の心情というものができあがっていく、という世界観からできあがっている源氏物語に対して宣長は、飽きない、と評価したのだと私は思います。そして宣長はこの、関係がゆらぎながら動いていくそのことを「もののあはれ」だと言ったのだと私は思います。

 宣長は、もののあはれをつきつめて考えていった末に古事記に至ります。宣長が34年間かかって「古事記伝」を書き終えたのは1798年です。

 古事記は神話です。神話とは、その神話をもつ民族が古来長い時間をかけてまとめあげてきた世界観に他なりません。世界観とは存在論です。ですから、もののあはれは、存在論に他なりません。だいたいからして、「もの」とは存在のことです。もののあはれとは、存在のあれこれ、という意味に他なりません。日本語にはもうひとつ、存在を表す言葉として「こと」がありますが、この「もの」「こと」については哲学者・長谷川三千子氏の「日本語の哲学へ」という新書に詳しく明らかです。

 宣長は源氏に呼応して編み出した「もののあはれ」の源泉を古事記に求めます。古事記において日本の神々のありようはどうでしょうか。支配神はおりません。神々の間に権力闘争もありません。イザナギイザナミは、ヒルコばかりができて悩んだときにどうしたでしょうか。アマツカミに相談に行きました。アマツカミはどうしたかというと、占いをしました。占いをするということは、自分は決めないということに他なりません。自らの上位に、従うべき何かが綿々とあるとアマツカミでさえ思っているということです。

 日本の神々は、最高神は誰かとか、ルールは誰が決めるのかといったことに興味はなく、関係の中に自分がある、関係がなければ自分はない、道理は綿々とすでにどこかにある、という世界観でもって暮らしています。すなわちこれが日本古来の存在論です。宣長が発見したとされる「もののあはれ」は日本古来の存在論です。だから宣長は、古事記は考えることなくただ飲み込め、と言ったのだと思います。

 この、いわゆる関係の存在論は、あるのかないのかばかりを言い続けてきた西欧がほぼ20世紀を待たなければ手に入れることのできなかった存在論でもあります。ハイデッガー(1889~1976年)が造語したとされるダーザイン、現存在は、もののあはれそのものではないでしょうか。はたして日本に西洋の近代文化は必要だったのだろうか、という問題もそれは含んでいます。

 源氏物語は日本古来、古事記が綿々と伝えてきた日本民族の存在論でできています。したがって、「一国の国民性・民族性がよく表された、その国特有の文学」と堂々と言うことができ、源氏物語は国民文学そのものだというのが私の結論です。次項、十に続きます。
 


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