昭和期に見られたような皇室への不敬といった評価は各時代を通じてまず見当たりません。皇室への不敬という源氏評価は昭和期のユニークです。しかしこれは、古来、そして徳川の時代がすでに皇室を軽んじていたので気にされなかったというようなことではありません。
徳川時代についてお話ししますと、たとえば忠臣蔵の伝説を生んだ元禄赤穂事件という事件があります。浅野内匠頭は、即日切腹、お家とりつぶしを命じられますが、この取り計らいはきわめて異例のものでした。殿中抜刀は切腹相当の大罪ですが、即日というのはまずない。なぜ異例に取り計らったかというと、松の廊下の事件が、五代目綱吉の母桂晶院に従一位の位の下賜決定を知らせるべく朝廷の使いが江戸城にまかる、その日に起きたものだったからです。高家の吉良上野介はこの儀式の執行長官、浅野内匠頭は実務にあたっていました。綱吉は浅野内匠頭の殿中抜刀を、朝廷の権威をないがしろにするものとして、即日の切腹とお家とりつぶしを命じたわけです。
ただ、これにはいろいろな見方があります。綱吉が母に欲した従一位というのは破格の位です。平時子、北条政子であってさえ従二位でした。綱吉のきわめて個人的な采配で女性最高位下賜の申請が通ること、それは、幕府の権威の絶頂をしらしめるものではありますが、天皇を頂く朝廷を貶めているといえるかどうかは議論の余地があります。
確かに徳川将軍家は、征夷大将軍の拝命にあたって、三代家光までは京都へ上って儀式を執り行っていたのを、四代家綱のときから京都へは上らず、江戸城で執り行うこととしています。ただ、ここにも家綱が将軍職を継いだのが11歳のときで、加えて身体がまことに弱かったという事情もあります。
幕藩体制の運営において相対的に朝廷の政治的権威は下がっていたということはできますが、心持上の、いわゆる権威ということについてはどうでしょうか。少なくとも徳川時代、一般民衆は、天皇が委任したものであるからこそ幕府に従う、という意識でいたことだけは間違いありません。
民衆は、幕府のことを「公儀」と呼んでいました。「公」というのは天皇のこと、「儀」はなりかわって、という意味ですから、公儀という言葉が出てきた時点ですべて天皇の采配ということになります。中央政府を指す言葉はすべて公儀で、家訓、村掟など自治的なルール文章に頻繁に出てくることとなります。たとえば村掟なら解決一切公儀の采配に従うという条文の付加は必須ですし、農家商家の家訓には公儀の御法度を硬く相守り、という一文が家安泰にとっての必須条件になります。
徳川時代の源氏のパロディに柳亭種彦の読み本で「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」があります。これは室町時代の足利将軍家に舞台が移されています。これも、皇室への不敬をおもんぱかったという意味は無く、武家をいじる物語の方が民衆にうけたから、ということだったように思います。
いずれにしても、源氏物語が天皇家への不敬の観点から批判された様子は、昭和期まで見当たりません。源氏物語にあるようなことは不敬になんぞあたらなかった、ということでもあるのだと思います。言ってしまえば、昭和期に叫ばれた不敬の実態は、西洋近代文化的な、キリスト教文化圏的な、そういった発想があって初めて成立した不敬ということにもなるのではないでしょうか。
不敬ということについてはいろいろな見方があると思います。徳川時代の文化の大きな特徴のひとつに、宮中文化の大衆化があります。武家の宮中文化導入を経由して一般民衆、町人に下りてきます。スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883~1955年)の言う大衆の反逆が起きているとは言えますまいか。これはやはり、いわゆる近代化の一現象です。大衆が表現というものに参画するようになった頃から不敬ということ、徳川期ではもっぱら武家に対する不敬ということになりますが、そういったことが起きてもくるわけです。次項、六に続きます。