今まで原文という言葉を使ってきましたが、作家とされる紫式部が書いたものは現存していません。写しに写しを重ねた文書が散在している状態だったのをまとめた人々がいて、その成果が源氏物語五十四帖と呼ばれています。
まとめた家系がふたつあります。どちらも鎌倉初期の話ですが、ひとつめは藤原定家、ふたつめは鎌倉幕府の初代和歌奉行だった源光行と親行親子です。定家がまとめた源氏は青表紙本と呼ばれます。源光行と親行親子がまとめた源氏は河内本と呼ばれます。鎌倉時代にはこの二系統の源氏物語があって、室町の時代に定家の青表紙本が主流になって今に至ります。評論家の西尾幹二氏が「日本の古典はあらかた定家が決めてしまいましたね」とおっしゃったことがあります。至言だと思います。
当初、源氏は、和歌の参考書として重宝されました。12世紀中ごろ、定家の父親・俊成は「六百番歌合」という和歌勝負の評者となったときの評、判詞に「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と残しています。どういうことかというと、ある和歌に聞きなれない言葉(くさのはら/「花宴」巻に出る言葉)が使ってあって、これは好ましくない、とした評者がいた。この言葉を源氏からの引用だと分からないで評している人がいる、源氏を知らんのかいな、この人は、恥かきめ、といったような批判です。「源氏見ざる」と言っているので、もしかすれば、俊成が言っているのは源氏の絵物語のことです。源氏物語の絵といえば、有名なのは12世紀末、平安末期につくられたという源氏物語絵巻が有名で、現存最古とされていますが、これは、現存最古なのであって、初めてつくられた絵巻ということではありません。おそらくは11世紀初頭、紫式部が書いたそばから絵はついていったはずです。その理由についてもおいおい述べていきます。
鎌倉が時代を進めるうちに、仏教というものが有難くなっていきます。紫式部は「色恋沙汰の絵空事を著して多くの人を惑わした紫式部は地獄に堕ちた」とされ、式部を成仏させるための源氏供養などというものが行われるようになったりします。この源氏供養の記録を理由に、源氏物語の作者は紫式部だとされているわけです。ともかく、道徳的な見地からの評価については今とあまり変わりはないようです。
以降、源氏物語に書いてある内容についての評価は、生活・人生の反面教師として参考にするような、そういったことになっていきます。徳川に入って朱子学が幕府公認になると、不倫だとか重婚じみたこと、家の秩序を乱すようなことが攻められます。そのくせ徳川時代には、読本だとか、浮世絵だとか、歌舞伎に源氏のカバー作品がずいぶん出てきます。井原西鶴の好色一代男などは五十四章の仕立てで、源氏物語の型をとっています。好色をテーマとする表現をするとき、すでに先行イメージもありますから、源氏の型は都合がよかったものと思います。次項、五に続きます。