二 現代の源氏評価とその正当性について。

 源氏物語にはいわゆる英雄が出てくるわけではないし、何か大きな国家的成功や成就が語られているわけでもありません。色好みと呼び慣わされますが女好きの光君および薫君をめぐる女性たちの心の平和に関する話で、嫉妬とあきらめ、かけひきが繰り返されて、静かに終わっていきます。

 登場する人物個々人の保身と安寧にしか興味のないような話ですから、これを国民文学と呼ぶことに躊躇があるのは一般的にしごく当然のことではないかと思います。もちろんその一方で、源氏の物語を別に国民文学などと言って無粋をする必要などない、ということもあります。

 けれども、私はどうしても源氏の物語が日本の国民性・民族性をよく表している物語だ、国民文学だとしたい誘惑にかられます。結論を先に申し上げれば、それはつまり源氏の物語に記述されている人間に対する実存の哲学、存在論が、日本人古来および現代に至る存在論そのものであって、源氏の物語に描かれているのはまさにそれだ、ということを考えたいのです。

 もちろん、作者とされる紫式部はそんなことを意識して書いたわけではありませんが、そのことを少しでも明らかにするために、源氏物語が時代によってどのように読まれ、どのように評価されてきたのかを俯瞰して紹介申し上げたいと思います。まずは近現代からはじめて、それから源氏物語の成立当初にもどり、徳川時代の本居宣長をゴールとして考えています。

 まず、現代人の源氏物語への直近の印象、評価はどんなものかということについて、紹介します。最近、とてもおもしろいサンプルを目にしました。あるSNSで交わされた源氏物語についてのやりとりです。多分に現代人の評価を象徴していると思いますので抜粋します。次の通りです。

●源氏物語は駄作である。
●長いが内容の薄い作品である。
●紫の上に関するエピソードはロリコン犯罪であり、気持ち悪い。
●身分が高ければ何をしてもいいのか。光君は勝手きわまる。
●不道徳にあふれているこの物語のどこが名著なのか。
●もののあはれなどともったいをつけて高尚ぶっているだけである。

 不道徳、人権侵害、犯罪などについては歴史の不遡及ということがありますから、ひとまず横におきます。ここで取り上げたいのは、源氏物語は駄作である、内容が薄い、という評価についてです。

 源氏物語は駄作である。これは、実に真っ当な評価であると思います。なぜなら、現代人の多くは源氏物語を小説だと思っています。だから、当然、こういう評価になります。源氏は駄作だという評価は、実はあたりまえの話です。

 駄作という評価は至極真っ当ですが、ここにまず、大きな勘違いがあります。源氏物語は小説ではありません。小説ではない、ということの意味はおいおいお話ししていきますが、とりいそぎ何が言いたいかと申しますと、源氏は駄作であるという評価は真っ当ではあるけれども、源氏にはまったく責任のない、源氏にとっては言いがかりとしか言いようのない評価だ、ということです。

 ちなみに、著名な作家でも、源氏は駄作である、と言う人は多くいらっしゃいます。たとえば福田恆存氏は源氏物語について、原文の日本語は素晴らしいが内容は読めたものでないと言っています。いつも須磨の巻で挫折するとおっしゃっていますから、何度かは読み通されようとしたことがあるようです。ちなみに現代語訳の谷崎訳などはこきおろしています。いちゃつきなさる、とはなにごとか。そういった具合に。しかし私は、福田恆存氏は、源氏物語の日本語は素晴らしい、とおっしゃっている、そのことが重要だと思います。言葉の問題は存在論に直結する問題です。次項、三に続きます。
 


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