一 はじめに。国民文学ということの意味について。

「源氏物語は日本の国民文学か」というテーマでお話を申し上げます。

 国民文学となると、まずは敗戦後すぐの、文芸評論家の竹内好氏らを中心に展開された「国民文学論」が有名です。サンフランシスコ講和条約(昭和27年・1952年)による日本の再独立を機として竹内氏らの「国民文学論」は展開されましたが、これは、独立国日本における、これからありうべき文学という意味合いでした。敗戦によって日本から朝鮮、台湾、沖縄が離れたことによる日本文学の領域のありようをはじめとした、政治色の色彩強い論です。

 これからお話し申し上げる国民文学の意味はこれとはちょっと違います。素朴な意味での国民文学で、たとえばアメリカならマークトゥエインのハックルベリーフィンかな、とかヘミングウェイかな、とか、フランスならユゴーのレ・ミゼラブルかな、とか、そういったところでの国民文学です。

 国民文学という用語について調べていて、ちょっと面白いことを見つけました。「国民文学」の辞書的意味です。同名の辞書でも版によって違うと思いますが、だいたい次の通りです。

大辞林(三省堂)
「一国の国民性・民族性がよく表された、その国特有の文学。また、その国で最も広く愛読されている、その国を代表する文学。」

大辞泉(小学館)
「一国の国民の諸特性をよく表現した、その国特有の文学。また、その国で広く国民に愛読されている文学。」

ブリタニカ国際大百科事典(TBSブリタニカ)
「一国の国民性または国民文化の表われた独特の文学とも、近代国民国家成立に伴ってつくられた文学ともいえる。いずれにしても国民または民族の固有の性格を高度に表現した文学のこと。」(抜粋)

広辞苑(岩波書店)
「①特に近代になって作られた一国の国民の特性や文化のあらわれた独特の文学。②国民の独立・統一・社会的進歩などの課題を意識し、国民の各層に広く読まれる文学。」

 この中で興味深いのは岩波書店の広辞苑です。評論家の某氏が、国民文学といえば何かと問われて、こう答えたそうです。ドイツならゲーテのファウスト、ロシアはドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟、日本は司馬遼太郎の「坂の上の雲」である。坂の上の雲、というところで何かピンとこずにいたのですが、わかりました。某氏は岩波の広辞苑に準拠していたのに違いありません。面白いと思います。

 広辞苑の意味をとればとうてい源氏物語は国民文学とは言えないでしょう。そこで広辞苑は放っておき、私は辞書は大辞林が好きですので、これに準拠します。

 はたして源氏物語は国民文学でしょうか。「その国で最も広く愛読されている、その国を代表する文学」であること、少なくともその中のひとつ、と言うことはできると思います。

 去ること2008年は源氏成立ミレニアム、1000年記念とされた年でした。1008年が源氏物語にとってなぜ特別な年かというと、紫式部の、その西暦にあたる年の日記に、初めて源氏物語のことを取りざたしているらしい文章があるからです。時の帝、一条天皇の東宮生誕の祝いに宮中に上がっていた、おそらくは当時中納言の藤原公任が、このあたりに若紫はおられるかと式部に声をかけた。式部は、光君に及ぶ男君など誰もいないところでどうして若紫がいらっしゃるものかと思った、とある。それをもって源氏物語にとって重要な年としているわけです。ただし、この文章で、源氏の作者は紫式部だとされたわけではありません。式部が作者だと判断されたのはもう少し後、鎌倉時代の記録によります。

 源氏物語ミレニアムだった2008年だけで90冊強の関連書籍が出版されています。いまも毎年20~30冊はコンスタントに出続けているようですから、人気があるということについては問題ないとして、重要なのは源氏物語が「一国の国民性・民族性がよく表された、その国特有の文学」であるかどうかだと思います。次項、二に続きます。
 


二 現代の源氏評価とその正当性について。

 源氏物語にはいわゆる英雄が出てくるわけではないし、何か大きな国家的成功や成就が語られているわけでもありません。色好みと呼び慣わされますが女好きの光君および薫君をめぐる女性たちの心の平和に関する話で、嫉妬とあきらめ、かけひきが繰り返されて、静かに終わっていきます。

 登場する人物個々人の保身と安寧にしか興味のないような話ですから、これを国民文学と呼ぶことに躊躇があるのは一般的にしごく当然のことではないかと思います。もちろんその一方で、源氏の物語を別に国民文学などと言って無粋をする必要などない、ということもあります。

 けれども、私はどうしても源氏の物語が日本の国民性・民族性をよく表している物語だ、国民文学だとしたい誘惑にかられます。結論を先に申し上げれば、それはつまり源氏の物語に記述されている人間に対する実存の哲学、存在論が、日本人古来および現代に至る存在論そのものであって、源氏の物語に描かれているのはまさにそれだ、ということを考えたいのです。

 もちろん、作者とされる紫式部はそんなことを意識して書いたわけではありませんが、そのことを少しでも明らかにするために、源氏物語が時代によってどのように読まれ、どのように評価されてきたのかを俯瞰して紹介申し上げたいと思います。まずは近現代からはじめて、それから源氏物語の成立当初にもどり、徳川時代の本居宣長をゴールとして考えています。

 まず、現代人の源氏物語への直近の印象、評価はどんなものかということについて、紹介します。最近、とてもおもしろいサンプルを目にしました。あるSNSで交わされた源氏物語についてのやりとりです。多分に現代人の評価を象徴していると思いますので抜粋します。次の通りです。

●源氏物語は駄作である。
●長いが内容の薄い作品である。
●紫の上に関するエピソードはロリコン犯罪であり、気持ち悪い。
●身分が高ければ何をしてもいいのか。光君は勝手きわまる。
●不道徳にあふれているこの物語のどこが名著なのか。
●もののあはれなどともったいをつけて高尚ぶっているだけである。

 不道徳、人権侵害、犯罪などについては歴史の不遡及ということがありますから、ひとまず横におきます。ここで取り上げたいのは、源氏物語は駄作である、内容が薄い、という評価についてです。

 源氏物語は駄作である。これは、実に真っ当な評価であると思います。なぜなら、現代人の多くは源氏物語を小説だと思っています。だから、当然、こういう評価になります。源氏は駄作だという評価は、実はあたりまえの話です。

 駄作という評価は至極真っ当ですが、ここにまず、大きな勘違いがあります。源氏物語は小説ではありません。小説ではない、ということの意味はおいおいお話ししていきますが、とりいそぎ何が言いたいかと申しますと、源氏は駄作であるという評価は真っ当ではあるけれども、源氏にはまったく責任のない、源氏にとっては言いがかりとしか言いようのない評価だ、ということです。

 ちなみに、著名な作家でも、源氏は駄作である、と言う人は多くいらっしゃいます。たとえば福田恆存氏は源氏物語について、原文の日本語は素晴らしいが内容は読めたものでないと言っています。いつも須磨の巻で挫折するとおっしゃっていますから、何度かは読み通されようとしたことがあるようです。ちなみに現代語訳の谷崎訳などはこきおろしています。いちゃつきなさる、とはなにごとか。そういった具合に。しかし私は、福田恆存氏は、源氏物語の日本語は素晴らしい、とおっしゃっている、そのことが重要だと思います。言葉の問題は存在論に直結する問題です。次項、三に続きます。
 


三 それは小説ではない。文明開化以降と以前の読まれ方について。

 さて、文明開化以降の源氏の読み方とそれ以前の源氏の読み方が違っていることに、普通の場合は、あまり想いを寄せません。寄せる必要もないわけですが、私にとっては考えることが多いので続けます。

 源氏物語が読まれ始めて一千年、その読まれ方にとりわけ大きな変化があったのは明治の文明開化時期です。ポイントはもちろん、西洋近代小説の流入です。

 文明開化を機に大量に入ってきた西洋、つまりキリスト教文化圏の近代小説の特徴をひとことで言うと「唯一絶対神に相対している私というものの問題解決の物語」です。解決に先立って生じるべき問題に説得力が無かったり、解決が甘かったりぬるかったりすると、駄作と呼ばれます。つまり、それこそ源氏物語が現代人に駄作と評価される理由なのですが、ここにすでに齟齬があることがおわかりいただけるかと思います。源氏物語には唯一絶対神もなければ、実に解決すべき問題も、そもそもありはしないのです。

 結論を急ぎすぎていますので話を戻しますと、とはいえ、西洋近代小説が流入した当時においても源氏物語は古典として存在していました。しかし、単に古典として存在しているだけで、その比較対象とはなりにくかったはずです。そこに、まことに画期的なことに、源氏の現代語訳というものが明治45年に登場します。与謝野晶子の手による与謝野源氏です。豪華本出版を事業として手がけていた大阪の出版業者、金尾種次郎が企画したもので、与謝野晶子にはとりわけ文学的使命感などといったものは無かったようです。

 駄作と呼ばれる起源はおそらくここにあります。与謝野源氏をもって源氏物語が小説として読まれ始め、評価の舞台が西洋近代小説と一緒にされ始めました。もちろん、一緒にしてしまった現代人にも、与謝野晶子の現代語訳にも責任があるわけではありません。ただ、西洋近代小説と源氏物語はまったく別物だという事実があって齟齬を起こしているだけです。別物、ということについては、追々にお話ししていきます。

 別の視点からの評価として、昭和初期から敗戦までの間の「皇室に対する不敬」というものもあるわけですが、これもまたすべて、現代語訳が出て、広く読まれるようになった結果です。映画監督の小津安二郎が中国に出征していた際に、葉書で谷崎源氏を送ってくれるように戦地から母親に頼んでいますが、届いた源氏はおそらく、あちこち墨塗りされたものだったことでしょう。

 文明開化以前および明治に入ってからしばらくたっても、与謝野源氏が出るまで、源氏物語というのはそうそう一般人が読めるものではありませんでした。源氏物語として世間にあったのは、原文に注釈のついた手引書だけです。源氏物語は、もっぱら学者が読み、研究する文献でした。

 注釈というのは、引き歌と呼ばれますが、出てくる歌の原典、地の文にも歌のかけらが出てきますからその原典をあたること、また、漢籍からの引用を明らかにすること、です。読み下しの解説も含みます。

 紫式部は漢文が読めて漢籍に詳しかったので、そこからの引用が多くあります。特に司馬遷の史記を大いに参考にしているそうで、史記からの引用も多い。源氏物語は、研究のための研究がもっぱらにされてきました。鎌倉以降は、武家人が持つべき教養のひとつとして教える、公家人のビジネス商材のひとつでもあったようです。

 これらの手引書は、だいたい11世紀の初頭に源氏が完成してから徳川末期の19世紀中ごろまで、わかっているだけで90冊書かれています。次の一覧の量を見て驚かれるかどうかはわかりませんが、少なくとも日本人がどれだけ源氏にとらわれてきたか、またはとらわれているかということの証になるのではないかと私は思います。

源氏物語 注釈・解説書

平安時代末期
 源氏釈 藤原伊行
鎌倉時代初期
 奥入 藤原定家
13世紀
 水原抄 源親行
 紫明抄 素寂
 異本紫明抄 不明
 幻中類林 華洛非人桑門了悟
 弘安源氏論議 源具顕
 雪月抄 不明
14世紀
 原中最秘抄 行阿
 河海抄 四辻善成
 仙源抄 長慶天皇
 珊瑚秘抄 四辻善成
15世紀
 千鳥抄 平井相助
 類字源語抄 師成親王
 源氏物語提要 今川範政
 一滴集 正徹
 山頂湖面抄 祐倫
 源氏和秘抄 一条兼良
 源氏物語年立 一条兼良
 花鳥余情 一条兼良
 源氏物語之内不審条々 一条兼良
 種玉編次抄 宗祇
 源語秘訣 一条兼良
 口伝抄 一条兼良
 雨夜談抄 宗祇
 紫塵愚抄 宗祇
 源氏物語聞書 肖柏
 源氏物語青表紙河内本分別條々 猪苗代兼載
 源語花錦抄 肖柏
 一葉抄 藤原正存
 三源一覧 富小路俊通
 源氏物語不審抄出 宗祇
16世紀
 弄花抄 三条西実隆
 細流抄 三条西実隆
 最要抄 耕雲
 源氏男女装束抄 月村宗碩
 明星抄 三条西実枝
 万水一露 能登永閑
 休聞抄 里村昌休
 長珊聞書 長珊
 林逸抄 林宗二
 浮木 橋本公夏
 紹巴抄 里村紹巴
 山下水 三条西実枝
 覚勝院抄 覚勝院
 孟津抄 九条稙通
 花屋抄 慶福院花屋玉栄
 岷江入楚 中院通勝
17世紀
 玉栄集 慶福院花屋玉栄
 源氏抄 不明
 源義弁引抄 一華堂切臨
 十帖源氏 野々口立圃
 源氏鬚鏡 小島宗賢・鈴村信房
 おさな源氏 野々口立圃
 首書源氏物語 一竿斎
 湖月抄 北村季吟
 源氏外伝 熊沢蕃山
 源氏註 中院通茂
 窺源抄 石出常軒
 源偶篇 契沖
 源氏物語忍草 北村湖春
 源注拾遺 契沖
18世紀
 紫家七論 安藤為章
 一簀抄 近衛基熙
 紫文蜑之囀 多賀半七(俗語訳)
 源氏官職故実秘抄 壺井義知
 源氏物語新釈 賀茂真淵
 源氏物語年紀考 本居宣長
 紫文要領 本居宣長
 ぬば玉の巻 上田秋成
 源氏物語ひとりごち 伊勢貞丈
 源語梯 五井純禎
 紫文紅筆 橘たか
 源氏物語玉の小櫛 本居宣長
19世紀
 宇津保物語玉琴 細井貞雄
 すみれ草 北村久備
 日本紀御局考 藤井高尚
 源氏物語瓊の御須磨琉 荒木田守訓
 源氏物語玉椿 細井貞雄
 玉の小櫛補追 鈴木朖
 紫のゆかり 山岡浚明
 少女巻抄註 鈴木朖
 源註余滴 石川雅望
 源氏物語大意 天野直方・和田祖能
 湖月抄別記 橘守部
 源氏雅語解 菅原種文
 葵の二葉 堀内昌郷
 源氏類纂抄 松岡行儀
 源氏類語 足代弘訓
 源氏物語評釈 萩原広道
20世紀
 与謝野源氏 与謝野晶子(1912年)
 谷崎源氏 谷崎潤一郎(1935年、1951年、1964年)
 校異源氏物語 池田亀鑑(1942年)
 源氏物語評釈 玉上琢弥(1964年) 
 ~

 特に13世紀から手引書ブームになって、以降で88冊が書かれています。平均するとおよそ7世紀700年間に亘ってほぼ10年おきに一冊の手引書が書かれていることになります。13世紀から数が増えるのはなぜかというと、この頃にはもう、源氏の原文は、今の我々と同様、読めなくなっていたからです。次項、四に続きます。
 


四 原文とは何か。鎌倉あたりから徳川時代の読まれ方について。

 今まで原文という言葉を使ってきましたが、作家とされる紫式部が書いたものは現存していません。写しに写しを重ねた文書が散在している状態だったのをまとめた人々がいて、その成果が源氏物語五十四帖と呼ばれています。

 まとめた家系がふたつあります。どちらも鎌倉初期の話ですが、ひとつめは藤原定家、ふたつめは鎌倉幕府の初代和歌奉行だった源光行と親行親子です。定家がまとめた源氏は青表紙本と呼ばれます。源光行と親行親子がまとめた源氏は河内本と呼ばれます。鎌倉時代にはこの二系統の源氏物語があって、室町の時代に定家の青表紙本が主流になって今に至ります。評論家の西尾幹二氏が「日本の古典はあらかた定家が決めてしまいましたね」とおっしゃったことがあります。至言だと思います。

 当初、源氏は、和歌の参考書として重宝されました。12世紀中ごろ、定家の父親・俊成は「六百番歌合」という和歌勝負の評者となったときの評、判詞に「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と残しています。どういうことかというと、ある和歌に聞きなれない言葉(くさのはら/「花宴」巻に出る言葉)が使ってあって、これは好ましくない、とした評者がいた。この言葉を源氏からの引用だと分からないで評している人がいる、源氏を知らんのかいな、この人は、恥かきめ、といったような批判です。「源氏見ざる」と言っているので、もしかすれば、俊成が言っているのは源氏の絵物語のことです。源氏物語の絵といえば、有名なのは12世紀末、平安末期につくられたという源氏物語絵巻が有名で、現存最古とされていますが、これは、現存最古なのであって、初めてつくられた絵巻ということではありません。おそらくは11世紀初頭、紫式部が書いたそばから絵はついていったはずです。その理由についてもおいおい述べていきます。

 鎌倉が時代を進めるうちに、仏教というものが有難くなっていきます。紫式部は「色恋沙汰の絵空事を著して多くの人を惑わした紫式部は地獄に堕ちた」とされ、式部を成仏させるための源氏供養などというものが行われるようになったりします。この源氏供養の記録を理由に、源氏物語の作者は紫式部だとされているわけです。ともかく、道徳的な見地からの評価については今とあまり変わりはないようです。

 以降、源氏物語に書いてある内容についての評価は、生活・人生の反面教師として参考にするような、そういったことになっていきます。徳川に入って朱子学が幕府公認になると、不倫だとか重婚じみたこと、家の秩序を乱すようなことが攻められます。そのくせ徳川時代には、読本だとか、浮世絵だとか、歌舞伎に源氏のカバー作品がずいぶん出てきます。井原西鶴の好色一代男などは五十四章の仕立てで、源氏物語の型をとっています。好色をテーマとする表現をするとき、すでに先行イメージもありますから、源氏の型は都合がよかったものと思います。次項、五に続きます。
 


五 不敬ということについて。

 昭和期に見られたような皇室への不敬といった評価は各時代を通じてまず見当たりません。皇室への不敬という源氏評価は昭和期のユニークです。しかしこれは、古来、そして徳川の時代がすでに皇室を軽んじていたので気にされなかったというようなことではありません。

 徳川時代についてお話ししますと、たとえば忠臣蔵の伝説を生んだ元禄赤穂事件という事件があります。浅野内匠頭は、即日切腹、お家とりつぶしを命じられますが、この取り計らいはきわめて異例のものでした。殿中抜刀は切腹相当の大罪ですが、即日というのはまずない。なぜ異例に取り計らったかというと、松の廊下の事件が、五代目綱吉の母桂晶院に従一位の位の下賜決定を知らせるべく朝廷の使いが江戸城にまかる、その日に起きたものだったからです。高家の吉良上野介はこの儀式の執行長官、浅野内匠頭は実務にあたっていました。綱吉は浅野内匠頭の殿中抜刀を、朝廷の権威をないがしろにするものとして、即日の切腹とお家とりつぶしを命じたわけです。

 ただ、これにはいろいろな見方があります。綱吉が母に欲した従一位というのは破格の位です。平時子、北条政子であってさえ従二位でした。綱吉のきわめて個人的な采配で女性最高位下賜の申請が通ること、それは、幕府の権威の絶頂をしらしめるものではありますが、天皇を頂く朝廷を貶めているといえるかどうかは議論の余地があります。

 確かに徳川将軍家は、征夷大将軍の拝命にあたって、三代家光までは京都へ上って儀式を執り行っていたのを、四代家綱のときから京都へは上らず、江戸城で執り行うこととしています。ただ、ここにも家綱が将軍職を継いだのが11歳のときで、加えて身体がまことに弱かったという事情もあります。

 幕藩体制の運営において相対的に朝廷の政治的権威は下がっていたということはできますが、心持上の、いわゆる権威ということについてはどうでしょうか。少なくとも徳川時代、一般民衆は、天皇が委任したものであるからこそ幕府に従う、という意識でいたことだけは間違いありません。

 民衆は、幕府のことを「公儀」と呼んでいました。「公」というのは天皇のこと、「儀」はなりかわって、という意味ですから、公儀という言葉が出てきた時点ですべて天皇の采配ということになります。中央政府を指す言葉はすべて公儀で、家訓、村掟など自治的なルール文章に頻繁に出てくることとなります。たとえば村掟なら解決一切公儀の采配に従うという条文の付加は必須ですし、農家商家の家訓には公儀の御法度を硬く相守り、という一文が家安泰にとっての必須条件になります。

 徳川時代の源氏のパロディに柳亭種彦の読み本で「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」があります。これは室町時代の足利将軍家に舞台が移されています。これも、皇室への不敬をおもんぱかったという意味は無く、武家をいじる物語の方が民衆にうけたから、ということだったように思います。

 いずれにしても、源氏物語が天皇家への不敬の観点から批判された様子は、昭和期まで見当たりません。源氏物語にあるようなことは不敬になんぞあたらなかった、ということでもあるのだと思います。言ってしまえば、昭和期に叫ばれた不敬の実態は、西洋近代文化的な、キリスト教文化圏的な、そういった発想があって初めて成立した不敬ということにもなるのではないでしょうか。

 不敬ということについてはいろいろな見方があると思います。徳川時代の文化の大きな特徴のひとつに、宮中文化の大衆化があります。武家の宮中文化導入を経由して一般民衆、町人に下りてきます。スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883~1955年)の言う大衆の反逆が起きているとは言えますまいか。これはやはり、いわゆる近代化の一現象です。大衆が表現というものに参画するようになった頃から不敬ということ、徳川期ではもっぱら武家に対する不敬ということになりますが、そういったことが起きてもくるわけです。次項、六に続きます。
 


六 本居宣長の源氏物語評価について。

 徳川期、いよいよ本居宣長(1730~1801年)が登場します。当時、勧善懲悪だとか好色の戒めだとかといった仏教的であったり儒教的であったりした源氏物語評価を嫌って、源氏を読むなら源氏の「もののあはれ」を評価せよ、と言い出します。

 宣長が言うのは次のようなことです。宣長が67歳の時に書いた「玉の小櫛」からの引用で、一般的にはこれが源氏物語の評価の決定版とされています。玉の小櫛は晩年の著作ですが、若年時において宣長の学問は源氏物語から始まりました。小林秀雄の「本居宣長」の出だしに、氏が民俗学者の折口信夫氏から「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と告げられる一節が出てきます。

——–
さてそは、作り主の、おのづから、優れて深くもののあはれを知れる心に、世の中にありとあることの有様、よき人あしき人の、心しわざを、見るにつけ聞くにつけ、ふるるにつけて、その心をよく見知りて、感ずることの多かるが、心のうちにむすぼほれて、しのびこめてはやみがたきふしぶしを、その作りたる人のうへに寄せて、詳しくこまかに書き表して、おのが、よしともあしとも思ふすぢ、言はまほしきことどもをも、その人に思はせ言はせて、いぶせき心をもらしたるものにして、よの中のもののあはれのかぎりは、この物語にのこることなし
——–
訳/それ(源氏物語)は、作者(紫式部)が、なりゆきのうちに、とりわけ深く「もののあはれ」を理解した心で、世の中のありとあらゆることの起こる様子や、よい人、わるい人の、心や行いを、見るにしても、聞くにしても、実際に関わるにしても、その心をよく観察・理解するうち、(式部の心に)感じることがいかにも多く、(式部の)心の中に憂鬱を伴って溜まっていき、(式部の心中だけに)押し隠してはおけないいろいろなことを、作中の登場人物をかりて詳細に書き表して、自分(式部)が、よいとも思うこと、わるいとも思うこと、言いたいことなどをも、その人(登場人物)に思わせたり言わせたりして、気の重い心を表に出したものであって、世の中のもののあはれは、残すところなくこの物語に書いてある。
——–

 宣長は「いいこともわるいことも源氏にはみんな書いてある。もののあはれが源氏には残さず書いてある」と言いました。また、玉の小櫛の別のところで宣長は「人の心はくどく女々しく定まらないものなんだ」と言い、源氏に書いてあるのはつまりそれで、「世の常の、平凡で似たようなことばかりが続く長い物語だが少しも飽きないのが見事だ」と言っています。

 おもしろいのは、宣長は源氏を「平凡で似たようなことばかりが続く長い物語」と言っていることです。つまり、宣長もまた、源氏は駄作だ、と言っているわけです。けれども宣長は、少しも飽きない、と言っている。ここがミソだと思います。

 それでは、宣長は源氏のどんなところをして、少しも飽きない、と言っているのでしょうか。もののあはれというのは、いいことわるいこと、そのすべてを牛耳る、人間の心を含むものごとの動きのことだと私は解釈していますが、考えたいのは、宣長はそれを源氏の何に見たのか、ということです。

 源氏物語は小説ではない、また、紫式部が書いたそばから絵がついていったはずだ、と先ほど申しました。宣長が源氏に何を見たのか考えるために、ここでふたたび成立当時の源氏物語に戻ります。源氏物語とはそもそも何だったのか、ということです。次項、七に続きます。
 


七 源氏物語は読むものではなかったということについて。

 源氏物語についての感想がはじめて文字にされるのは「更科日記」だと思います。源氏物語が成立してからだいたい20年後に書かれました。菅原孝標女が書いた日記です。現存する最古の源氏の感想文がその中にあります。伯母から箱入りの50余巻の源氏をもらって読みふけった、私もきっと夕顔にようになる、浮舟のようになる、なんてことが書いてあります。

 実はここに、ふたたび大きな勘違いの種があります。今まで、源氏を「読む」と言ってきました。しかしはたして源氏は読むものだったのかということです。

 更科日記には読みふけったとあるわけですから菅原孝標女は確かに読んでいます。ただ、この菅原孝標女というのは受領つまり田舎役人の娘で、宮中勤めにあこがれる、つまり女房つまりキャリアウーマン志向の女性で、紫式部になりたい文学少女です。したがって、菅原孝標女の源氏物語の付き合い方というのはレアケース、もしくは、そんな女の子は他にもいっぱいいたかもしれないけれども本流ではありません。しかし、源氏物語について当時、文字に残っているものは更科日記しかないから、みんなこういった具合に楽しんだんだろう、写しに写されて本にして綴じられた源氏物語をみんながまわし読みなどして楽しんだものなんだろうと考えられてきました。しかし源氏の物語は、実は成立当時、読んで楽しむものではありませんでした。

 玉上琢弥という源氏研究者がいらっしゃいました。1915年生れで1996年に亡くなっています。おそらく最強の源氏研究者だと私は思っていますが、この玉上琢弥教授が1955年に「物語音読論」という論文を発表しました。簡単に説明しますと、源氏物語は読むものではなく、姫様に女房が読んで聞かせるものだった、という論文です。姫様は、絵物語をくくりながら、女房が語る話を聞いて楽しんだ。紫式部が書いたのは、女房用の読み上げ台本なのだ、という主張です。否定論もありますが、当時、物語が読むものではなくて読み聞かせてもらうものだったということは、源氏物語の中に証拠があります。「蛍」という帖は、紫式部が物語論を展開する帖として有名ですが、その中にあります。引用は現代訳、谷崎源氏です。

「殿(光君)はこちらにもあちらにも絵物語が取り散らかっていますのが、おん眼につきますので、(中略)「こういう昔物語でも見るのでなければ、全くほかに紛らわしようのないつれづれを、慰める術もありますまいね」」

「近頃幼い姫君が女房などにときどき読ますのを聞いていますと、ずいぶん世の中には話し上手がいるものですね」

「姫君のお前で、このような男女のことを書いた物語などをお読み聞かせになってはいけません」

 寝転んでいる姫様は・・・姫様は寝転んでいました。十二単は非常に重く、姫様はほとんどの時間を寝転がって過ごしました。だから疲れず、だから夜更かしだったのだそうです。とにかく、寝転んで、絵物語の絵を見ながら、女房が語って聞かせる源氏物語を楽しみました。物語と絵は常にワンセットです。日本の漫画が優れているはずです。歌舞伎などよりはるかに長い伝統です。姫様はそんな具合に、読み手とは別に周りに数人いる女房たちと、登場人物について、噂話をするような調子であれこれ言いながら、楽しんだわけです。

 紫式部はそんな状況を知ったうえで、台本を書きます。源氏物語の前にもけっこうな数の物語というのはあり、たとえば竹取物語などは源氏物語の中にもちゃんとその作品名を持つ物語の一冊として出てきますが、それまでの物語というのはごく粗い筋が仕立ててあるだけで、語り手の女房がその都度いろいろ脚色をして話して聞かせたもののようです。しかし紫式部は、台本の時点で細かく脚色を施した。それが式部の手柄であり文芸だと玉上琢弥教授はおっしゃっています。

 ところで、源氏物語を現代語訳で読むのはいかがなものかとおっしゃる方は多くおられます。もちろん、それを強制する方はきわめて少ないわけですが、なんとなく現代語訳というものに対しては借り物という感じが一般的風潮としてあるように思います。しかし、現代語訳というものを、式部の書いた台本を基にした、優れた作家陣が腕を振るった我々への読み聞かせなのだと考えたとき、そこには源氏物語の楽しまれ方の大元があると申せましょう。谷崎源氏がですます調であるのは、玉上教授の物語音読論を意識したものだという説もありますし、玉上教授は谷崎源氏の実質的監修者だったという説もあります。谷崎源氏第三訳の別巻「源氏物語の引き歌」は玉上教授の著書です。最近の現代語訳を見てみますと、橋本治氏の「窯変 源氏物語」は主人公・光君の一人称で綴られています。これなどは、源氏物語を近代小説化した、非常に道理の通った試みだと思いますし、林望氏の現代語訳には、宇治十帖の最終部にきわめて重要な解釈があります。

 話を戻しまして、式部が物語を書くにあたって、ここが肝心なところだと思うんですが、女房というのは、いろいろな家から来ています。ほとんどが実力者の娘です。宮中で語られる物語ですから、そこにはいろいろな人間関係があり、いろいろな心理がある。しかも、それは不特定多数ではなく、式部はそれぞれひとりひとりの事情を知っているわけです。ちなみに紫式部が仕えたのは、藤原道長の娘、彰子です。時は一条天皇の御世で、彰子は息子を産んでちゃんと中宮になります。源氏物語は、原則として彰子に読み聞かせるために書いた物語です。

 話をおもしろくしようとしながらも、彰子の局にいる人々、訪れる可能性のある人々の立場というものに非常に気を使う。源氏物語は成立当時から約100年ほど前の御世が舞台という設定ですが、実話であることが前提になっています。式部はフィクションだとわかっていて書きますが、それを楽しむほうは実話として楽しむのです。

 したがって、源氏物語というのは、かなり独特な書かれ方をします。事項、八に続きます。
 


八 源氏物語は存在論であるということについて。

 年老いた女房が語り手としており、伝え聞いた話ですが、というかたちで書かれていることがまず源氏物語の独特です。それとは別に私がとりあげたいのは内容の書かれ方のことです。源氏物語というのはどの巻、どのエピソードをとってもおしなべて、仕方がないんだ、どうしようもないことなんだというところに話を落ち着けます。解決もなければ教訓もありません。

 そんな話がどうして、飽きない、のでしょうか。私は書かれ方、言葉遣いに秘密があると思っています。次の引用をご覧ください。谷崎源氏からの引用です。桐壺が死に、その母親のもとに、帝の使いの靫負命婦(ゆげいのみょうぶ)がお見舞い、といいますか、生まれた息子(光)を宮中に戻せと命令させにいくわけですが、そのときに、桐壺の母が命婦に愚痴をこぼします。

●桐壺の母の愚痴
「子を思う道にくれまどう心の闇の片端だけでも、お話し申し上げて胸を晴らしとうございますから、公の御使いでなしに、一度ゆっくりお越しなされて下さいませ。この年頃は嬉しいことや晴れがましい御用でお立ち寄りくださいましたのに、こういう悲しいおん消息の御使いとしてお眼にかかりますとは、返す返すもままならぬ命でございます。亡くなりました娘は、生れた時から望みをかけていた娘でございまして、故大納言がいまわの際までも、『どうかこの人の宮仕えの本意を必ず遂げさせて下され。私が死んだからといって、意気地なく挫けてはなりません』と、くれぐれも言い置かれましたので、立派な後身を持たぬ女の人交わりはなかなかなことと存じながら、ただ遺言に背かないようにと思うばかりにご奉公に出しましたところ、身にあまるお志の幾重とも知れぬ忝さに、人に人とも思われぬような扱いをされるのを忍びながらどうにかお付き合いをしているらしゅうございましたが、朋輩方の嫉みが深く積もり、苦労の数々が増えてまいりまして、横死のような風に亡くなってしまいましたので、今ではかえってもったいないご寵愛をお恨み申しているようなわけでございます。これも親心の愚痴でございましょうか」

●上記の愚痴に呼応する、命婦が預かってきている帝の言葉
「わが心ながら、ああも一途に、人目をおどろかすように思いつめたというのも、やはり長くは続かない縁であったのかもしれぬと思うと、苦しい契りを結んだものだという気がする。自分はいささかでも人の気持ちをそこのうた覚えはないのだけれども、ただこの人がいたために、恨まれないでもいい人たちの恨みを負うたとどのつまりは、こんな具合に一人あとに残されて、心を取り直す術もなくて、いよいよみっともなく、頑なになったのであるが、前の世でどんな約束がしてあったのか知りたい」

 桐壺の母も、とりわけ帝は、自分から発する心情ではなく、すべて人と人との関係をもってありさまを語ります。まわりくどくていいわけがましく、他人事のように聞こえるのはそのためですが、当人にはそんなつもりはありません。紫式部および登場人物にとって、そういうふうにしか世界はできていないのです。

 紫式部および登場人物は、自分というものがまずそこにあって何かが生じるのではなく、関係というものが揺らぎながら動いていくことで自分というものは生じ、自分の心情というものができあがっていく、と考えています。つまり、これが源氏物語における世界観であって、人間の実存です。

 したがって、源氏物語では、ある物事が起こった場合、その物事は必ず複数の視点から描かれます。対立した視点であることもあれば、並行並列した視点の場合もあります。単純な逸話なのに重層で厚みのある感じがするのはそのためです。

 それらの関係の変化推移のありようが源氏物語のすべてであって、何か大きな事件が起こったり、それが解決したりするわけではない。源氏物語がべらぼうに長い理由もここにあります。ひとつのことを二方向からも三方向からも書くから、それは長くなるに決まっています。

 考えてみれば、これは実にあたりまえの話です。源氏物語は、姫様に読み聞かせるために書かれました。それにはちゃんと目的があって、経験ということを全くしない、またすべくもない姫様に、世の中というのはこういうものだ、こういうときにはこう考える、こういうときにはこうするものだということを教えるためにまず書かれたものだからです。そして、肝心なことをひとつ申し上げれば、世の中とはこういうものだと教えるために書かれたものこそは存在論であって、他の何がいったい存在論なのか、ということです。次項、九に続きます。
 


九 もののあはれ、という存在論について。

 自分というものはそこにはなく、関係というものが揺らぎながら動いていき、自分ないし自分の心情というものができあがっていく、という世界観からできあがっている源氏物語に対して宣長は、飽きない、と評価したのだと私は思います。そして宣長はこの、関係がゆらぎながら動いていくそのことを「もののあはれ」だと言ったのだと私は思います。

 宣長は、もののあはれをつきつめて考えていった末に古事記に至ります。宣長が34年間かかって「古事記伝」を書き終えたのは1798年です。

 古事記は神話です。神話とは、その神話をもつ民族が古来長い時間をかけてまとめあげてきた世界観に他なりません。世界観とは存在論です。ですから、もののあはれは、存在論に他なりません。だいたいからして、「もの」とは存在のことです。もののあはれとは、存在のあれこれ、という意味に他なりません。日本語にはもうひとつ、存在を表す言葉として「こと」がありますが、この「もの」「こと」については哲学者・長谷川三千子氏の「日本語の哲学へ」という新書に詳しく明らかです。

 宣長は源氏に呼応して編み出した「もののあはれ」の源泉を古事記に求めます。古事記において日本の神々のありようはどうでしょうか。支配神はおりません。神々の間に権力闘争もありません。イザナギイザナミは、ヒルコばかりができて悩んだときにどうしたでしょうか。アマツカミに相談に行きました。アマツカミはどうしたかというと、占いをしました。占いをするということは、自分は決めないということに他なりません。自らの上位に、従うべき何かが綿々とあるとアマツカミでさえ思っているということです。

 日本の神々は、最高神は誰かとか、ルールは誰が決めるのかといったことに興味はなく、関係の中に自分がある、関係がなければ自分はない、道理は綿々とすでにどこかにある、という世界観でもって暮らしています。すなわちこれが日本古来の存在論です。宣長が発見したとされる「もののあはれ」は日本古来の存在論です。だから宣長は、古事記は考えることなくただ飲み込め、と言ったのだと思います。

 この、いわゆる関係の存在論は、あるのかないのかばかりを言い続けてきた西欧がほぼ20世紀を待たなければ手に入れることのできなかった存在論でもあります。ハイデッガー(1889~1976年)が造語したとされるダーザイン、現存在は、もののあはれそのものではないでしょうか。はたして日本に西洋の近代文化は必要だったのだろうか、という問題もそれは含んでいます。

 源氏物語は日本古来、古事記が綿々と伝えてきた日本民族の存在論でできています。したがって、「一国の国民性・民族性がよく表された、その国特有の文学」と堂々と言うことができ、源氏物語は国民文学そのものだというのが私の結論です。次項、十に続きます。
 


十 宣長が「もののあはれ」を言い出さなければならなかった理由について。

 ここで考えたい大きな問題があります。それは、18世紀の中ごろ、徳川という時代に、宣長ががなぜ「もののあはれ」などと言い出したのか、という問題です。「もののあはれ」が日本古来の存在論なのであれば、それは半ば常識なはずで、空気のようなものだったはずです。なぜ、ことさらに言い立てる必要があったのか、ということです。

 それはおそらく、宣長のもうひとつの用語「からごころ」と大いに関係のある問題でもあるかと思います。「からごころ」とは万物の本質、原理原則を人間の理性で追求していく姿勢や態度、つまり原理主義のことです。原理主義が漢籍つまり大陸からの書物に多く見られ、当時の日本人がそれを無条件に有難がることを煙たがって宣長は「からごごろ」と呼びました。単に大陸趣味、シナ趣味のことを言ったわけではありません。

「からごころ」はもののあはれ、つまり関係の存在論とは対極にあると言うことができます。けれども、ここが肝心かと思いますが、宣長がもののあはれを確認するためにとった研究態度は「からごころ」の方法であり、言い方を変えると西洋近代的方法に他なりません。

 小林秀雄、また、西尾幹二氏が著書「江戸のダイナミズム」でおっしゃっていることですが、徳川時代に近代はすでにありました。ただし、それがいつから始まったものであるかはさまざまに議論のあるところかと思いますが、ともかく近代は明治維新によって外からもたらされたものではなく、そのかなり前から日本では始まっていたということなのだろうと思います。

 宣長は「からごころ」を否定的な文脈で使っています。当時、もののあはれが失われつつあってそれを嘆いたということではなく、近代化の台頭に宣長は危機感を抱き、源氏物語を再発掘してもののあはれを強調したのではないかという気がします。

 日本人古来の存在論は、西洋ならびに大陸・中華のあるなしの二元論ではなく、道理というものがどうしようもなくあらかじめにあるそのうえでの重層的関係多元論です。言ってしまえば思慮と思いやりにあふれた、違う視点でいえば、結論を出す、決断をするということがどうもしっくりこないといった性格です。宣長はそれを、もののあはれの理論を使ってやまとごころとして明確な思想にしようとしました。ということはすなわち、なにか、その日本古来の存在論とそぐわないものごとが少なくとも宣長の時代にはびこっていたということに他なりません。

 日本古来の存在論とそぐわないものがいつから始まったものかはわかりません。ただ、私の見当としては、室町の末期から戦国の時代、そして織田信長の比叡山の焼き討ち、楽市楽座でかたまったものだと思います。日本の近代はおそらくここから明らかなものとして始まったのではないかと思っています。

 平安末期から朝廷の財政を圧迫し、また、活発な経済運動を行って利権化するようになる寺社勢力は、言ってしまえば今でいうカルト的な性格を持っていました。仏に抗うことはならない。御霊信仰とも関係があります。だいたい平安、鎌倉、室町初期は、政治とは祟りを鎮めることだといわんばかりの運営です。

 周辺の寺社勢力ばかりが財を溜め込みます。それを織田信長が、きわめて科学的、功利的な判断で比叡山を叩きました。経済の恩恵が、これで広く一般化することになるわけです。おそらくはこれが日本の近代のはじまりであって、今に続いているのだと思います。経済が宗教からきっぱりと分かれる信長の経済開放があり、秀吉の安全保障の列島標準化があり、家康の通貨統一と封建体制成立の天下統一がありました。宣長が生きたのは、家康からすでにほぼ200年を過ぎた時代です。宣長が感じたのは、この近代というものの腐乱臭だったのではないでしょうか。その可能性は高いんだと思います。

 宣長はやまとごころを大事にしたいと考えたわけですが、そのやまとごころを主張するために宣長がとった方法は、からごころつまり近代科学的な方法に他なりませんでした。何かを主張しなければと考えたときにとる方法は、からごころ以外にないことを証明しています。

 民族性からいえば、日本は、まずは中華文明、その後の西洋文明とうまくやっていけるはずがない。しかし、中華文明と西洋文明とは否応なく侵犯してくる。それに抵抗するためには、近代文明の方法をとらなければならず、近代文明に長ける以外にありません。日本の文明史、文化史とはそういうものではなかったか、そして今後もそうなのだろうと思います。
 

 拙稿をお読みいただき、誠にありがとうございました。