『春秋戦国時代 合戦読本』 (別冊宝島)で、春秋戦国時代の主に軍編成についての記事を担当しました。

~六韜と中臣鎌足~

 古代中国の兵法書に『六韜』という書があります。春秋以前の周に仕えた、いわゆる太公望が王の質問に答えるスタイルの兵法解説書ですが、当時は編成がなかったはずの騎兵なども登場することから、リアルタイムにまとめられたものではなくて、成立はずっと後のこととされています。孫武の『孫子』と並び称せられますが、六韜の場合は、特に謀議謀略、奇計奇法の指南書として人気があり、現代のビジネス書などにもよく引用されます。

 乙巳の変~大化改新で有名な中臣鎌足は『六韜』マニアでした。日本書紀には出てきませんが、およそ100年ほど後に藤原仲麻呂(恵美押勝)が書いた藤原氏一族の沿革書『藤氏家伝』にそう書いてあります。

 乙巳の変は実力による政変事件で、そのなりゆきは書紀にも家伝にもかなり詳しく書かれています。鎌足は間違いなく、実行計画の立案者でしょう。入鹿を排除した後、蘇我宗家勢力のいわば城だった飛鳥寺をただちに占拠して宗家勢力を蝦夷(入鹿の父)邸籠城のやむなきにおいこむ。蝦夷邸籠城の勢力の中にはちゃんとスパイを送り込んであって、自主的に武装解除させる。大いに六韜を参考としていると思われます。

 また、乙巳の変は、宮殿・飛鳥板蓋宮で展開しました。「三韓(高句麗、新羅、百済)の朝」という外交儀式の場で起こったことから、そのような重要な儀式の場で国際的な問題になりかねないような事を起こすだろうか、ということで、乙巳の変自体を疑問視する説もあります。しかし、これもまた、六韜の思考方法から、効率性、確実性の点で、この時がベストだと判断されたことに不思議はありません。外国のことを気にするならば、当時の三韓と日本との関係は、この手の事件も承認しあえる関係だったと言うこともできそうです。また、当時、高句麗・百済と敵対関係にあった新羅は参列していなかったのではないかという説もあります。

 乙巳の変の実行者の武器はもっぱら刀(中大兄皇子は槍)ですが、鎌足は弓を持っていました。興味深いのは、なぜ弓を持っていたのかといえば、鎌足には、政変が失敗したときにはただちに中大兄皇子を射殺して宗家(入鹿)側につく用意があったからだ、という説があることです。これもまた、鎌足が六韜マニアだったとすれば、可能性のないことではありません。

 鎌足は中大兄皇子が天智天皇として即位して8年後に病死します。そのときに藤原の姓を賜りました。日本書紀には、見舞った天智天皇に「生きては軍国のためにお役に立てず」として詫びたと書かれています。一般的には、白村江の戦いの惨敗を悔やんで、とされています。藤氏家伝に白村江の戦いの記述はなく、日本書紀の白村江の戦いの記事にも鎌足の登場はなく、鎌足がどれだけの役割と責任を負っていたのかはわかりません。普通に考えれば、鎌足は戦場には向かわずとも参謀として大いに戦を采配したと想像できるわけですが、もしもそうなら、白村江の戦いでは上陸すらできませんでしたから、鎌足の兵法、軍思想、参謀能力は、実戦ではまるで役に立たなかった、と言うことができます。

 そうなると、乙巳の変はまぐれあたりのような、奇跡的な成功だったということにもなりかねません。しかし、そうであれば、また、乙巳の変は、歴史教科書の記述から印象される、中臣鎌足~中大兄皇子ラインといったような、こじんまりとした規模の計画では決してなくて、かなりの政治家が関係した重層構造を持つ、言ってしまえば既定路線の政変だったとも考えられるわけです。


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