『完全保存版 歴代天皇と元号秘史』(別冊宝島)で、元号の歴史など、巻頭解説を部分担当しました。125代の天皇代の元号総覧も担当しています。
日本で最初の元号は日本書紀によれば「大化」(大化の改新の大化)です。乙巳の変を経て、孝徳天皇の即位にともなって制定されました。元号の概念は中華のプラットフォームですが、アジア周辺諸国が冊封体制のもと帝国の元号を使用する中、日本は独自(とはいっても、大化の出典は書経や漢書にあります)の元号を制定しました。
ただし、元号の使用が法制化されたのは60年ほど後の文武天皇代の大宝律令においてで、大化の元号は、公文書においても使われることはほとんどなかったようです。これはおそらく、大化という元号が、国内に対してのものではなく、国外、具体的には大陸の帝国にあててのものだったためではないかと思います。
当時、朝鮮半島はきわめて不安定な情勢にありました。618年に隋が滅して唐が起こる。危機を感じたものでしょうが、高句麗と百済が連合して、唐と関係の深い新羅に侵攻する。百済がまずいことをやれば、日本は百済を介して運用してきた朝鮮半島での、具体的には鉄製品の利権を失います(実際には、後、白村江の戦いで日本は敗戦して利権を失うわけですが)。
そんな中で、日本が行ってきたのは、朝鮮半島の動向に決定的な影響を与える唐との直接交渉ではなかったかと思います。630年に第一回の遣唐使を送り、翌々年には唐から使者が来ている。遣日使という考え方、用語も最近はありますが、日本書紀をみると、日本と唐との間で、相当数の使者をやりとりしています。
これは、同じく朝鮮半島が不安定になったときに聖徳太子が行った外交と同じ構図です。聖徳太子が行ったのは、朝鮮半島での鉄利権を脅かす新羅を、隋に交渉して隋から圧力をかけようとした遣隋使外交でした。そのときのエピソードとして「日出処の天子」があります。隋の煬帝を激怒させたという伝説もありますが、冊封関係にあれば使用のありえない称号を親書で使い、対等の外交を求めるものだったということは言えるかと思います。大化の元号は、おそらく、聖徳太子の「日出処の天子」と同じ目的をもって、唐に対して発表されたものだったと思います。
しかし、日本書紀には、それら、大化の元号の背景などは書かれていません。わが国は唐の属国などではないなどとも書かれていません。
白村江の敗戦後、新羅が唐の後見をもって朝鮮半島を統一しました。そして日本で天智天皇が即位すると、唐は速攻、37隻の船団を組み、2000人の唐人を日本に送り込んでいます。当然、脅しに間違いありませんが、唐はそのとき、「我々がいくから、防人に攻撃しないように伝えてくれ」という伝令をまず送っています。白村江の戦い後、天智天皇(中大兄皇子時代も)は、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて防人を強化し、多数の山城を侵攻想定ルートに建設しましたが、唐・新羅連合軍が日本に軍事侵攻してきたという記録はないようです。
これらのことを素直にみると、日本は当時、軍事的にも強国であり、近代で言ういわゆる一等国として国際的に認識され、また、ヤマト政権もそれを自認していた、ということになるのではないでしょうか。古来、日本は小さな弱国であり、聖徳太子の「日出処の天子」に見られるように、弱小国といえども気概をもち、がんばって独立を保ってきた、という史観には、少なからず見直すべき点があると考えています。ポイントは、おそらく、日本書紀には現れない、古の日本列島の、日本海沿岸および関東以北の歴史にあるのではないかと思います。
次の記事を担当しています。
●大喪礼と即位礼
●元号の発祥
●元号と西暦
●元号候補の発案者
●元号の出典「史書五経」
●改元のタイミングとその種類
●コラム「なぜ大化から元号は始まったか」
●125代の天皇の足跡と元号総覧