『地形と海路から解き明かす! あなたの知らない古代史』(タツミムック/辰巳出版)で、中大兄皇子の対唐・新羅国防策、七道駅路、孝徳天皇の難波宮、防人の赴任経路、奥州藤原氏、十三湊と環日本海交易、北海道・東北の古代史、物部vs蘇我戦争などの記事を書きました。
7世紀、天智天皇から天武天皇の時代に、律令制の整備に伴って、行政単位が七道に区分されました。現在の関東にあたる東海道、中部にあたる東山道、北陸道、山陽道、山陰道、四国にあたる南海道、九州にあたる西海道で七道です。
その七道の区分にともなって都と七道をつなぐ駅路がつくられました。それを七道駅路と呼ぶわけですが、この駅路は可能な限り直線道路で建設されていること、道幅は6mから30mまでかなり幅広いものであったこと、必要な場合には切り通しや埋め立てなどを行い、現在の舗装道路工事とほぼ同じ工法(アスファルトはありませんが)でつくられたことが、現在も進められている発掘調査でわかっています。
直線道路であったことから古代のハイウェイなどと比喩されますが、興味深いのは、山陰道の一部の区画では、現在の高速道路とルートのありかたが一緒で、当時の駅(馬を乗り替えたり情報使者が食事したりする中継基地)の置き方が、現在のインターチェンジの置き方にほぼ一致するという研究があることです。
どうやって直線をとったかというと、まず、最低必要人員は3名。最低必須用具は棒。まずひとりが起点に立って、もうひとりが適当距離離れて棒を立てます。もうひとりがさらに離れて棒を構えます。そして、起点に立った人が誘導して、手前の棒の陰に隠れるように、向こうのもうひとりの棒を誘導する。この作業を繰り返すことで直線を測量していったとされています。
次の記事を担当しました。
《飛鳥》
●唐帝国の侵攻経路を予測し築かれた防衛拠点
●歴代天皇が都建設を望んだ難波の地形と重要性
●飛鳥の王宮が場所を遷して建てられた背景
●中央に宮城がある藤原京は長安がモデルではない?
《奈良》
●長安城の宮城に近づいた平城京建設の背景
●聖武天皇の行幸の背景と水運・防衛に長けた新都造成
●蝦夷討伐と柵の建設で東北支配を進めた朝廷
●全国をつなぐ道路網 七道駅路と駅制の整備
●現代の道路工法とほぼ同じだった七道駅路
●『万葉集』の歌に見る 防人の赴任経路と境遇
●流刑地に定められた立地の条件とは?
《平安》
●四神相応の理想の都 平安京の地形をさぐる
●平泉を拠点として貿易で栄えた奥州藤原氏
●平家一門の繁栄を支えた海の道と港の整備
●環日本海交易と貿易港として栄えた十三湊
《コラム》
●物部氏vs.蘇我氏 勝因をさぐる
●独自の鉄器文化が栄えた北海道・東北の古代史