平成27年6月20日  源氏は男が読まないと。①

 源氏物語は、言い訳だらけの物語です。言い訳するのは、もっぱら男です。うまいことを言っているつもりでも絶対に女性には届かない言い訳ばかりで、源氏物語はつまり、男の言い訳のNG集です。したがって男はみな、源氏を読んだほうがよろしかろうと思います。

 たとえば、光の息子・夕霧は、初めての浮気に際して、妻・雲居雁にこんな言い訳をします。

「私のような男がまたとあるでしょうか。相当の地位に昇った者が、こうして脇目もふらないで一人の人を守っていて、臆病な雄の鷹のようにしているのを、世間の人はどんなに笑っているでしょう。このような偏屈な男に守られておいでになるのは、あなたのおためにも自慢にはなりますまい。あまたの美しい方々が揃っている中で、やはり一段と立ち勝って、違ったお扱いを受けるところが見えてこそ、人も奥床しく思いましょうし、御自分としてもいつも若々しい心持で、絶えず世の面白さや哀れさや哀れさを感じることができるのです。私などはたった一人を後生大事に守ったという某の翁のような愚かな人間なのですから、まことに口惜しい次第です。これではあなたも張り合いはありませんな。」

 妻・雲居雁はこう切り返します。

「何か張り合いのあることをお拵えにならねばならないほど、古臭くなった私なのでございましょうね。そんなにあなたが当世風にお変わりなされた御景色の凄まじさに、初めてお目にかかりますので、たまらない気がいたします。」

(谷崎潤一郎訳源氏物語・「夕霧」帖より引用)

 源氏は「女の物語」とも呼ばれます。たいがいは、女の方が偉くて筋が通っています。実際、女の采配で事は落ち着きます。上記の一件でも、夕霧が浮気をやめる、やめさせられるというようなことは起こりません。夕霧は放っておかれて、くどいったらありゃしない己の言い訳に何を思うでもなく、あいも変わらず淡々と出世していくだけです。あいも変わらずというところにひとつ、源氏物語の面白さの本質じみたところがあるのですが、別の大きなテーマですので他の機会といたします。

 ちなみに当時、財産の相続権は女が持っていました。女が偉くまた強い、ということにはこういった事情も関係しているはずです。男にあるのは身分だけで、身分に女(財産)がついてくる仕組みでした。光が最終的に六条の大屋敷に住むことになったのも、その大部分の前所有者である六条の御息所の娘をいったん養女にして帝に嫁がせたからです。

 さて、源氏物語が言い訳だらけなのはなぜでしょうか。もちろん、それぞれにやましいところがあるからですが、反省して謝り、身を改める人物は、なぜか源氏にはおそらくひとりも登場しません。だからつまり言い訳だらけになるわけですが、存外、こんなところに源氏物語とは何の物語であるかといった秘密まで隠されているように思います。

 源氏物語はなぜ言い訳だらけなのか。結論から先に言いますと、源氏物語は小説ではないから、です。

 平安期の物語には目的がありました。世間を知らない、また知るべくもなく育てられる貴族の姫君に、世の中はこのように出来ていると教育するために女房が語り聞かせたものが平安期の物語です。文字で書かれた物語は女房用の読み上げ台本で、源氏も例外ではありませんでした。これは故・玉上琢弥博士が前世紀中頃にされた主張で、筆者はこれに大いに与します。そして、その台本たるべき物語を書くときに、作者といわれる紫式部が演出をこと細かく書き込んだために、他にあまたあったと思われる物語よりも源氏は文芸度が高く、現在に至るまで日本文芸の中心にいる次第となったようです。ちなみに、平安末期から明治維新までの800年ほどの間に、現存するだけでほぼ10年に一冊のペースで源氏物語の解説書・評論書が書かれています。あまり意識されませんが、日本は実に源氏物語にとらわれ続けています。

 源氏は小説ではないと申し上げましたが、この「小説」とは、明治以降の近代小説のことを指しています。明治以降の近代小説のテーマはひとことで言えば「「私」の問題を解決して「私」を救済するその方法」です。キリスト教文化圏の西洋近代小説が輸入された結果です。そして、源氏物語はこのテーマをまったく持っていません。源氏は小説ではない、というのはそういう意味です。

 では、源氏物語には何が書かれているのでしょうか。人と人、人と社会の関係のゆらぎのありさま、に尽きます。本居宣長が源氏物語を批評して言った「もののあはれ」とはこのことだと筆者は解釈しています。源氏物語には、当時の世界観がしつこく描かれます。姫君に「世の中はこのように出来ている」ということを教える目的を持っているわけですから当然です。

 源氏の作者には「私」中心の視点はありません。登場人物の心情といったものは、すべて「関係」の描写で描かれます。世界は「関係」でできている、というのが源氏の世界観で、絶対的な主軸、イデオロギーの発想がありません。「関係」のうつろいが描き連ねられていって、結果、読む側聴く側の胸中に何かしみじみとした感じが生じる、といった書かれ方になっています。一般的にはこの「何かしみじみとした感じ」が「もののあはれ」だとイメージされているようですが、これは狭義の「もののあはれ」です。

 源氏物語がべらぼうに長い理由もここにあります。「関係」というものを描きますから、ひとつのものごと・事件について、源氏では必ず複数の視点から描かれます。誰がああ言う、誰はこう言う、誰はああでも他ではこう、といった具合です。従って、源氏物語は非常に長くなります。くどくどしいばかりで、面白くありません。本居宣長でさえ、源氏はつまらないということを認めています。けれども、宣長は同時に「飽きない」と言っています。源氏の魅力はここです。

 関係の世界観のもとでは、簡単に言えば「関係の安定の追求」が日々の暮らしということになります。けれど否応なく人には、男と女ということがあり、立場ということがあり、妬み嫉みというものがあって、絶対に安定などしません。しかし、源氏の登場人物たちは安定を追求してやみません。関係の安定の追求とは、目立たずにいようと努力することです。従って、源氏物語はその場のとりつくろいばかりが延々と描かれ、結果、言い訳だらけになります。

 言い訳だらけとなる、は、謝らない、と同義です。謝らない、は、私は悪くない、と同義ですが、私という言葉が入った時点で、これは西洋近代的な解釈になります。源氏物語は、謝らないを含め、言い訳しっぱなしでその先がありません。世の中はこのように出来ていると教育するために書かれたものが存在論以外の何かであるはずがなく、言い訳のケーススタディであると同時に源氏物語は、西洋の系譜とは異なる日本古来の存在論を考えるとき大いに参考になる、お徳な物語です。

 


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