平成27年6月23日  源氏物語は現代語訳で正統。

 源氏物語を現代語訳で読むのはいかがなものか。そうおっしゃる方は、少なくなくいらっしゃいます。現代語訳では源氏を読んだことにはならない、というご意見です。そこまで主義的でなくとも、なんとなく現代語訳については、古文は難しいのでしかたなく読む代替品という感じがぬぐえない風潮というものもあるように思います。

 たぶん死んでも終わらないと思いますが、筆者は源氏物語の原文(とはいっても小学館の新編日本古典文学全集の源氏)をすべてひらがなに開いてペリカンの万年筆とロイヤルブルーのインクを使ってノートに書写していくという嫌味な趣味を持っています。確かに味わいというものは、あります。また、敬語による関係表現の妙、というのは古文でなければなかなかわからない、ということもあります。

 けれども、源氏物語は原文で読まなければ味わいもへったくれもない、という意見に、筆者は大きく反対です。ふたつ、理由があります。

 まず、消極的で軽い理由をひとつ。原文原文と言われるけれども、それは本当に原文なのか、という問題です。作者とされる紫式部が書いた文書そのものは現存していません。写しに写しを重ねた文書が散在している状態だったのをまとめた人々がいて、その成果が源氏物語五十四帖と呼ばれています。

 現在、一般的に定本とされている源氏物語は、鎌倉期13世紀前半に藤原定家が指揮をとってまとめたものです。つまるところ、今広く読まれている源氏物語は定家源氏で、二次、三次あるいはそれ以上次の資料です。特に15世紀以降に多数書かれる源氏の注釈書はそういった状態との戦いで、原文主義とはつまり、十世紀近くに亘る先人たちの業績の総和を参照せよとする主義なわけです。とても太刀打ちできるものではありません。もちろん太刀打ちすることには重大な価値があり、学府をはじめとする研究者の方々には尊敬以外の念を持ちません。方々の研究があってこそ今と将来、源氏を楽しむことができるわけです。だからこそしかし、おそらく学府にいるのでない限り、原文主義はナンセンスです。

 ふたつめの理由が本題です。拙稿「源氏は男が読まないと。① 」に書いたことですが、源氏物語には書かれた目的というものがありました。世間を知らない、また知るべくもなく育てられる貴族の姫君に、世の中はこのように出来ていると教育するために女房が語り聞かせたものが平安期の物語で、文字で書かれた物語は女房用の読み上げ台本です。源氏物語も例外ではありません。一条天皇のもとに入内した道長の娘・彰子に読み聞かせるために書かれました。女房が姫に読み聞かせる。これが源氏物語が楽しまれるシーンのオリジンです。

 現代語訳というものを、残された台本を基にして行う、優れた作家陣が腕を振るった我々への読み聞かせなのだと考えたとき、それは源氏物語の楽しまれ方のオリジンそのものだ、と筆者は思います。つまり、正統的です。読み聞かせてもらう我々が姫ではない、というところだけ違います。作家というポジションはどこかしら女房に似ていますから、そこはいいんじゃないかと思います。

「蛍」は、光君の口を借りて作者が物語論を展開している帖としてよく知られていますが、中にこんな一節があります。

「殿(光君)はこちらにもあちらにも絵物語が取り散らかっていますのが、おん眼につきますので、(中略)「こういう昔物語でも見るのでなければ、全くほかに紛らわしようのないつれづれを、慰める術もありますまいね」」

(谷崎潤一郎訳源氏物語より引用)

 当時の物語の楽しまれ方がわかる一節です。姫は寝転んで・・・姫様は寝転んでいました。十二単は非常に重く、姫様はほとんどの時間を寝転がって過ごしました。だから疲れず、だから夜更かしだったのだそうです・・・とにかく寝転んで、絵物語をめくりつつ、女房の読み聞かせを聴くのです。姫つまりエンドユーザーの手元にあるのは、絵物語。今でいう漫画です。日本の漫画が優秀なのは当然です。能や歌舞伎などよりはるかに長い伝統です。現存最古の源氏物語の絵巻といえば平安時代末期の作とされる国宝が有名ですが、これはあくまでも現存最古です。物語が書かれるそばから、絵のついた絵物語に別途アレンジされていったはずです。何が言いたいかといいますと、筆者が正統としたい現代語訳には漫画作品も含まれる、ということです。

 最近の現代語訳では、林望氏の「謹訳 源氏物語」が2013年に完了しています。林望氏といえばリンボウ先生、主にイギリスの生活習俗を扱ったエッセイストとしてつとに知られていますが、文献研究を旨とする書誌学の専門家でもあります。大学職退任まで時期を待ち、満を持して源氏を訳したという氏の現代語訳は、上記、太刀打ちのできない部分まで踏み込んであるはずの名訳だと思います。「夢浮橋」のエンディングは大いに驚きました。

 きわめて特異な現代語訳として、橋本治氏の「窯変 源氏物語」(1993年完了)があります。年老いた女房が語り手としていて、伝え聞いた話ですが、というかたちで書かれているのが源氏物語ですが、橋本治氏の源氏は、光君を完全主人公とする一人称で書き改められています。

「窯変 源氏物語」はきわめて論理的、科学的にして道理の通った試みであり、それを貫徹されてしまった氏には敬服する以外にありません。源氏物語は小説ではありません。明治以降の近代小説とは目的もテーマもつくりも異なるから、というのがその理由です。氏の源氏は、それをあえて近代小説化するという方法で書かれた、現代日本有数の知性・橋本治氏ならではの源氏物語論です。「窯変 源氏物語」を読むと、源氏は何がどうして面白いのか、少なくとも橋本氏が源氏の何に魅力を感じているのかということがわかります。

 


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