平安当時、相撲は宮中の年中行事で「相撲節会(すまひのせちえ)」と呼ばれていました。正月17日に行われる弓の儀式「射礼(じゃらい)」、5月5日に行われる馬上から弓を射る儀式「騎射(うまゆみ)」と並んで、「相撲節会」は「三度節」のひとつに数えられていました。当初は7月7日に行われる行事でした。
源氏物語には、相撲が「竹河」と「椎本」の帖に登場します。相撲そのものは登場しませんが、平安貴族の生活の中で、「相撲節会」がどのような位置にあったのかを垣間みることができます。「椎本」で、宇治に住んで出家をのぞむばかりの没落した皇族・八の宮に、薫の君が宇治への再来を約束する場面です。
≪「……こういう対面もこれが最後になりはしないかと、心細さについ怺えかねて下らぬ愚痴を数々申してしまいました」とお泣きになります。
客人の君(薫)、
いかならん世にか離れせん長きよの ちぎり結べる草のいほりは
(末長くお約束いたしましたからは、いつの世にこの草の庵をお見捨てしましょうぞ)
相撲節会など、公の御用の忙しい時が過ぎましてから、またお伺いいたしましょう。≫(『潤一郎訳源氏物語』谷崎潤一郎・中央公論社)
薫の君が不在の言い訳に使って十分な理解が得られるほど、「相撲節会」は宮中の一大イベントでした。薫の君は、当時、「相撲節会」を主宰する側である近衛府の重職にあったのです。