舞の海秀平・著『大相撲で解く「和」と「武」の国・日本』 (ベストセラーズ)で、構成・編集協力を担当しました。

 力士しか掴みえない、舞の海氏ならではの人間観、社会観、もちろん相撲観には、やはり、これは!というものがあります。本場所の本質は優勝レースではないということ、お客様に見ていただいているという意識の重要性は力士にとっては精神論ではなく実務論であるということ、40年以上前にすでにビデオ判定を導入するなど大相撲ほど勝敗の公正公平にこだわる競技もないということ、大相撲ほど機会平等・実力一本な世界はないということ、氏の師匠の故・佐田の山の思い出、矛盾とあいまいに満ちた土俵の世界など、次の本場所が楽しみになる話が満載です。名勝負・平成3年11月場所の対曙戦も、本書中で解説されています。

 また、舞の海氏は、相撲史上の重要人物として、明治期の常陸山谷右衛門(1874~1922)を特筆しています。常陸山は、第19代の横綱。弟子を連れて自費で欧米外遊し、セオドア・ルーズベルトに会い、ホワイトハウスで土俵入りを披露し、フランスへ回って彫刻家のロダンと会見しました。また、常陸山が現役中に著した『相撲大鑑』は、歴史、組織論にわたる、豊饒な総合研究書です。大相撲にある武士道的潔さは、実に、常陸山が整えた相撲でした。そのあたりのこともじっくり述べられています。

 神話時代から現代にいたる「相撲の日本史」も別項でまとめられています。マワシと髷のスタイルは古代から変りませんが、宮中行事、神事、勧進、定期興行と変遷してきた大相撲は、ひとつの型が、いかに時機を見て、ビジネスモデルを変え、千数百年を生き延びてきたかの歴史でもあります。


『春秋戦国時代 合戦読本』 (別冊宝島)で、春秋戦国時代の主に軍編成についての記事を担当しました。

~六韜と中臣鎌足~

 古代中国の兵法書に『六韜』という書があります。春秋以前の周に仕えた、いわゆる太公望が王の質問に答えるスタイルの兵法解説書ですが、当時は編成がなかったはずの騎兵なども登場することから、リアルタイムにまとめられたものではなくて、成立はずっと後のこととされています。孫武の『孫子』と並び称せられますが、六韜の場合は、特に謀議謀略、奇計奇法の指南書として人気があり、現代のビジネス書などにもよく引用されます。

 乙巳の変~大化改新で有名な中臣鎌足は『六韜』マニアでした。日本書紀には出てきませんが、およそ100年ほど後に藤原仲麻呂(恵美押勝)が書いた藤原氏一族の沿革書『藤氏家伝』にそう書いてあります。

 乙巳の変は実力による政変事件で、そのなりゆきは書紀にも家伝にもかなり詳しく書かれています。鎌足は間違いなく、実行計画の立案者でしょう。入鹿を排除した後、蘇我宗家勢力のいわば城だった飛鳥寺をただちに占拠して宗家勢力を蝦夷(入鹿の父)邸籠城のやむなきにおいこむ。蝦夷邸籠城の勢力の中にはちゃんとスパイを送り込んであって、自主的に武装解除させる。大いに六韜を参考としていると思われます。

 また、乙巳の変は、宮殿・飛鳥板蓋宮で展開しました。「三韓(高句麗、新羅、百済)の朝」という外交儀式の場で起こったことから、そのような重要な儀式の場で国際的な問題になりかねないような事を起こすだろうか、ということで、乙巳の変自体を疑問視する説もあります。しかし、これもまた、六韜の思考方法から、効率性、確実性の点で、この時がベストだと判断されたことに不思議はありません。外国のことを気にするならば、当時の三韓と日本との関係は、この手の事件も承認しあえる関係だったと言うこともできそうです。また、当時、高句麗・百済と敵対関係にあった新羅は参列していなかったのではないかという説もあります。

 乙巳の変の実行者の武器はもっぱら刀(中大兄皇子は槍)ですが、鎌足は弓を持っていました。興味深いのは、なぜ弓を持っていたのかといえば、鎌足には、政変が失敗したときにはただちに中大兄皇子を射殺して宗家(入鹿)側につく用意があったからだ、という説があることです。これもまた、鎌足が六韜マニアだったとすれば、可能性のないことではありません。

 鎌足は中大兄皇子が天智天皇として即位して8年後に病死します。そのときに藤原の姓を賜りました。日本書紀には、見舞った天智天皇に「生きては軍国のためにお役に立てず」として詫びたと書かれています。一般的には、白村江の戦いの惨敗を悔やんで、とされています。藤氏家伝に白村江の戦いの記述はなく、日本書紀の白村江の戦いの記事にも鎌足の登場はなく、鎌足がどれだけの役割と責任を負っていたのかはわかりません。普通に考えれば、鎌足は戦場には向かわずとも参謀として大いに戦を采配したと想像できるわけですが、もしもそうなら、白村江の戦いでは上陸すらできませんでしたから、鎌足の兵法、軍思想、参謀能力は、実戦ではまるで役に立たなかった、と言うことができます。

 そうなると、乙巳の変はまぐれあたりのような、奇跡的な成功だったということにもなりかねません。しかし、そうであれば、また、乙巳の変は、歴史教科書の記述から印象される、中臣鎌足~中大兄皇子ラインといったような、こじんまりとした規模の計画では決してなくて、かなりの政治家が関係した重層構造を持つ、言ってしまえば既定路線の政変だったとも考えられるわけです。


『完全保存版 歴代天皇と元号秘史』(別冊宝島) で、元号の歴史など、巻頭解説を部分担当しました。125代の天皇代の元号総覧も担当しています。

『完全保存版 歴代天皇と元号秘史』(別冊宝島)で、元号の歴史など、巻頭解説を部分担当しました。125代の天皇代の元号総覧も担当しています。

 日本で最初の元号は日本書紀によれば「大化」(大化の改新の大化)です。乙巳の変を経て、孝徳天皇の即位にともなって制定されました。元号の概念は中華のプラットフォームですが、アジア周辺諸国が冊封体制のもと帝国の元号を使用する中、日本は独自(とはいっても、大化の出典は書経や漢書にあります)の元号を制定しました。

 ただし、元号の使用が法制化されたのは60年ほど後の文武天皇代の大宝律令においてで、大化の元号は、公文書においても使われることはほとんどなかったようです。これはおそらく、大化という元号が、国内に対してのものではなく、国外、具体的には大陸の帝国にあててのものだったためではないかと思います。

 当時、朝鮮半島はきわめて不安定な情勢にありました。618年に隋が滅して唐が起こる。危機を感じたものでしょうが、高句麗と百済が連合して、唐と関係の深い新羅に侵攻する。百済がまずいことをやれば、日本は百済を介して運用してきた朝鮮半島での、具体的には鉄製品の利権を失います(実際には、後、白村江の戦いで日本は敗戦して利権を失うわけですが)。

 そんな中で、日本が行ってきたのは、朝鮮半島の動向に決定的な影響を与える唐との直接交渉ではなかったかと思います。630年に第一回の遣唐使を送り、翌々年には唐から使者が来ている。遣日使という考え方、用語も最近はありますが、日本書紀をみると、日本と唐との間で、相当数の使者をやりとりしています。

 これは、同じく朝鮮半島が不安定になったときに聖徳太子が行った外交と同じ構図です。聖徳太子が行ったのは、朝鮮半島での鉄利権を脅かす新羅を、隋に交渉して隋から圧力をかけようとした遣隋使外交でした。そのときのエピソードとして「日出処の天子」があります。隋の煬帝を激怒させたという伝説もありますが、冊封関係にあれば使用のありえない称号を親書で使い、対等の外交を求めるものだったということは言えるかと思います。大化の元号は、おそらく、聖徳太子の「日出処の天子」と同じ目的をもって、唐に対して発表されたものだったと思います。

 しかし、日本書紀には、それら、大化の元号の背景などは書かれていません。わが国は唐の属国などではないなどとも書かれていません。
 白村江の敗戦後、新羅が唐の後見をもって朝鮮半島を統一しました。そして日本で天智天皇が即位すると、唐は速攻、37隻の船団を組み、2000人の唐人を日本に送り込んでいます。当然、脅しに間違いありませんが、唐はそのとき、「我々がいくから、防人に攻撃しないように伝えてくれ」という伝令をまず送っています。白村江の戦い後、天智天皇(中大兄皇子時代も)は、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて防人を強化し、多数の山城を侵攻想定ルートに建設しましたが、唐・新羅連合軍が日本に軍事侵攻してきたという記録はないようです。

 これらのことを素直にみると、日本は当時、軍事的にも強国であり、近代で言ういわゆる一等国として国際的に認識され、また、ヤマト政権もそれを自認していた、ということになるのではないでしょうか。古来、日本は小さな弱国であり、聖徳太子の「日出処の天子」に見られるように、弱小国といえども気概をもち、がんばって独立を保ってきた、という史観には、少なからず見直すべき点があると考えています。ポイントは、おそらく、日本書紀には現れない、古の日本列島の、日本海沿岸および関東以北の歴史にあるのではないかと思います。

次の記事を担当しています。
●大喪礼と即位礼
●元号の発祥
●元号と西暦
●元号候補の発案者
●元号の出典「史書五経」
●改元のタイミングとその種類
●コラム「なぜ大化から元号は始まったか」
●125代の天皇の足跡と元号総覧


『地形と海路から解き明かす! あなたの知らない古代史』(タツミムック/辰巳出版)で飛鳥、奈良、平安の記事をいくつか担当しました。

『地形と海路から解き明かす! あなたの知らない古代史』(タツミムック/辰巳出版)で、中大兄皇子の対唐・新羅国防策、七道駅路、孝徳天皇の難波宮、防人の赴任経路、奥州藤原氏、十三湊と環日本海交易、北海道・東北の古代史、物部vs蘇我戦争などの記事を書きました。

 7世紀、天智天皇から天武天皇の時代に、律令制の整備に伴って、行政単位が七道に区分されました。現在の関東にあたる東海道、中部にあたる東山道、北陸道、山陽道、山陰道、四国にあたる南海道、九州にあたる西海道で七道です。

 その七道の区分にともなって都と七道をつなぐ駅路がつくられました。それを七道駅路と呼ぶわけですが、この駅路は可能な限り直線道路で建設されていること、道幅は6mから30mまでかなり幅広いものであったこと、必要な場合には切り通しや埋め立てなどを行い、現在の舗装道路工事とほぼ同じ工法(アスファルトはありませんが)でつくられたことが、現在も進められている発掘調査でわかっています。

 直線道路であったことから古代のハイウェイなどと比喩されますが、興味深いのは、山陰道の一部の区画では、現在の高速道路とルートのありかたが一緒で、当時の駅(馬を乗り替えたり情報使者が食事したりする中継基地)の置き方が、現在のインターチェンジの置き方にほぼ一致するという研究があることです。

 どうやって直線をとったかというと、まず、最低必要人員は3名。最低必須用具は棒。まずひとりが起点に立って、もうひとりが適当距離離れて棒を立てます。もうひとりがさらに離れて棒を構えます。そして、起点に立った人が誘導して、手前の棒の陰に隠れるように、向こうのもうひとりの棒を誘導する。この作業を繰り返すことで直線を測量していったとされています。

次の記事を担当しました。

 《飛鳥》
 ●唐帝国の侵攻経路を予測し築かれた防衛拠点
 ●歴代天皇が都建設を望んだ難波の地形と重要性
 ●飛鳥の王宮が場所を遷して建てられた背景
 ●中央に宮城がある藤原京は長安がモデルではない?
 《奈良》
 ●長安城の宮城に近づいた平城京建設の背景
 ●聖武天皇の行幸の背景と水運・防衛に長けた新都造成
 ●蝦夷討伐と柵の建設で東北支配を進めた朝廷
 ●全国をつなぐ道路網 七道駅路と駅制の整備
 ●現代の道路工法とほぼ同じだった七道駅路
 ●『万葉集』の歌に見る 防人の赴任経路と境遇
 ●流刑地に定められた立地の条件とは?
 《平安》
 ●四神相応の理想の都 平安京の地形をさぐる
 ●平泉を拠点として貿易で栄えた奥州藤原氏
 ●平家一門の繁栄を支えた海の道と港の整備
 ●環日本海交易と貿易港として栄えた十三湊
 《コラム》
 ●物部氏vs.蘇我氏 勝因をさぐる
 ●独自の鉄器文化が栄えた北海道・東北の古代史


『新発見で迫る戦国の謎』(TJMOOK ふくろうBOOKS/宝島社)で、秀吉の指月伏見城をはじめいくつかの記事をまとめました。

『新発見で迫る戦国の謎』(TJMOOK ふくろうBOOKS/宝島社)で、秀吉の指月伏見城や、小牧・長久手の戦い中に家康が降伏を申請したことについての秀吉の書状、琉球国王・尚寧に宛てて秀吉天下統一完成の祝賀使節を送るよう依頼する島津義久の書状、秀吉の朝鮮出兵と航海技術の関係、天空の城・竹田城と戦国シルバーラッシュ、ヨーロッパ史から見直す遣欧使節、新井白石とシドッチ、貯蓄資産としての埋蔵金についてまとめました。

 ジョヴァンニ・シドッチは1708年に月代(さかやき)をそり上げ、和服姿で屋久島に密入国したイタリア人宣教師。平成26年に東京・小石川の切支丹屋敷跡からシドッチとみてほぼ間違いない遺骨が出土しました。DNA鑑定と、新井白石のシドッチ尋問記録『西洋紀聞』からの割り出しです。

 その西洋紀聞に興味深い記述があります。新井白石が、どうしてこんな東の果ての小国(白石は日本を極東の小国と認識していた)にこだわるのかとシドッチに尋ねていますが、その流れの中で、アジアの大国・中国(当時は清)についてこんなことを言っています。
「日本人は物事を丸く見るが、中国人は四角く見る。日本人が温和なところは衣服のようだが、中国人の心持は腰掛のように固い。また、中国人は近しくいるものを賤しく考え、そのうえ、遠くにいるものについて尊ぶことをしない」
 白石は、中国人は原理主義(漢人の正を守て、動かしがたき)だからな、としてこれを受け、日本は仏教が隆盛しているために教えも人それぞれで「みづから異教を見て、怪しむ事をしらず」と言っていますが、その良し悪しについては触れていません。


『幕末維新のすべて (洋泉社MOOK) 』で、土佐藩、会津藩、新選組の概説を担当しました。

 幕末日本は、やじうま歴史話的に観ると、今のEUの状況に似ているところがあるかもしれませんね。ブリュッセル官僚+ドイツを江戸幕府として、イギリスを薩摩藩に見立てる、というような。特段、EUと幕末がどうのというより、古来、諸国連合というのは、同じ状況やなりゆきを持っていくものなのでしょう。

 新選組の土方歳三は戦死していますが、近藤勇は処刑。近藤処刑の法的根拠には大いに検討の余地があると思います。幕末明治維新期に、戦死・暗殺・切腹は平時より多くありますが、処刑者はきわめて少ない。本当のところ、近藤くらいではないでしょうか。最終的に朝敵となった中の大玉、徳川慶喜も、会津藩の松平容保も、函館戦争総大将にして函館共和国総裁の榎本武揚も、処刑などはされていないし、切腹させられているわけでもありません。榎本武揚などはその後、敵方だった明治政府の大臣を歴任しているわけですし。さまざまな条件と状況があってのこと思いますが、だとすると、なおさら近藤の処刑というのは際立ってくるように思います。


別冊宝島『日本の海賊・水軍の謎』で大航海時代英国のサー・フランシス・ドレークについて書きました。

 本は村上水軍の話が目玉なんですが、私は海賊まわりのよもやま話を担当して、大航海時代英国のサー・フランシス・ドレークについてちょっと書きました。

 ドレークは、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破った英国海軍の司令官。現在でも国家的英雄ですが、いわゆる海賊だったことはよく知られています。ただし、外国の研究者はドレークをPirate(海賊)扱いすることはあまりなくPrivateer(私掠船)船長として別に置きたがるようで、フィリップ・ゴスの「海賊の世界史」なんかではあからさまにそうなっています。私掠船というのは「戦争状態にある敵国の船については攻撃して積荷を強奪してよいという許可を自国政府から得た船」のことです。つまり、イギリスとスペインが戦争状態に入る1585年以降(1604年まで)はたとえば、カリブ海でのスペイン船やパナマ港への攻撃は「私掠船」行為で海賊行為ではない。いわゆる「カリブの海賊」は、ずっと後、ドレークから100年くらい後の話になります。

 ドレークは1580年、世界一周に成功(マゼランに次ぐ)して帰国します。この功績でエリザベス女王からサーの称号を得るわけですが、ドレークはマゼラン海峡から太平洋側に周り、チリ・ペルー沿岸で、すでに当地を植民化して物資をかきあつめていたスペイン船を襲いまくり金銀財宝スパイスを強奪しまくって航海を続け、英国に戻ってきたときには当時の英国国家予算の3倍額に相当する戦利品を確保していました。スペインと戦争状態に入る以前の話ですから、当然これは海賊行為です。このときエリザベス女王がその半分ほどをプライベートで受け取っていることはよく知られていますが、当時は極秘事項。公然の秘密ではあっても、外交上、ドレークの海賊行為とは無関係で押し通されました。

 エリザベス女王が収益したということはつまり、女王がドレークに出資していたということを意味します。ドレークをはじめ大航海時代の海賊は実は秘密裏の国家的事業で、政治家や事業家が海賊に出資するシンジケートが大いに機能していました(竹田いさみ著『世界史をつくった海賊』)。エリザベス女王(一世)が海賊に出資していたことは、1929年に大英博物館資料室で発見された収支伝票で初めて確認されたといいますから、シンジケートの存在についても、事実として明らかになったのはそんなに古い話ではありません。英国という国は、海賊を使ってスペインから横取りした資金でスペインと戦争をして講和し、海賊がもたらした資金でもって東インド会社を興して貿易経済を軌道に乗せたという、つくづくすさまじい国なわけですね。大航海時代から帝国主義時代というのは、スペインとポルトガルが拓いた経済ネットワークをイギリスとオランダとフランスが奪いにいくという図でありました。

 ドレークはじめ、シンジケートを通して出資を受けた海賊にはもちろん国家的バックアップはありません。公式には国とは無関係にやっている勝手盗賊ですから保障はまったくありません。そこに船舶保険の出目があり、ゆくゆくロイズの保険ビジネスとなっていく。ロイズの発祥はロンドンのコーヒーハウスですが、コーヒーハウスは、海賊シンジケートの取引会所がもともとなのだそうです。


宝島社の知恵袋BOOKS『マヤと古代文明 封印された真実』で「メソポタミア・インダス文明とスキタイの謎」のコーナーの執筆を担当しました。

 宝島社の知恵袋BOOKS『マヤと古代文明 封印された真実』で「メソポタミア・インダス文明とスキタイの謎」のコーナーの執筆を担当しました。

 メソポタミアの地では、農産物はしこたま獲れるけれども都市生活に必要な物品(用具、装飾品)造作のための原料、特に金属類(主に銅)は産出しません。金属類はもっぱら、アラビア海を海上ルートとして周辺数百~千数百キロ離れたアラビア海沿岸の他文明に頼んでいました。メソポタミアは周辺文明経済の一大消費地として機能していたわけです。他文明はメソポタミアから穀物類を輸入します。古代文明はそれぞれ別個にぼこっと存在していたわけではなくて、それぞれ交易ネットワークで連絡していて、必要なもの(欲しいもの)はどんな遠くへでも取りに行くのが古来、現在にいたるまで文明の性質のようです。

 最近の説で興味深いのはインダス文明についてのものかと思います。メソポタミアとインダスの間、イラン高原あたりにエラムという文明があり、その文明はもともとメソポタミアを相手にしていた交易文明でした。商売なのでエラムは当然、利ざやを大きくとります。メソポタミアはそこをコストカットするためにエラムに侵攻したりなどします。エラムはそれでいったん後退しますが、新たにトランスエラムという活動体をつくって交易を再開する。しかし、メソポタミア一辺倒の交易はリスクが高いので、エラムは自らの西方、インダス川流域に興っていた農耕社会地域に目をつけ、対貿易地域に育てるべく開発を始めた。それがどうやらインダス文明の起こりということらしい。インダス文明は先行文明による新規事業開発特区だったというわけです。

 教科書にはインダス文明は外来のアーリア人によって滅ぼされた、と書いてあることが多いわけですが、この説は現在、完全に否定されています。特に古代文明において顕著に語られますが「文明というものは必ず外来の征服者または抑圧されていた弱者層の反乱によって滅ぼされる」という闘争史観による文明交代の定説は昨今では大きく見直されていて、なかなかおもしろいようです。


『日本史再検証 キリシタンとは何か (別冊宝島)』で執筆に参加して戦国・江戸時代のキリシタン対策のコーナーをまとめました。

 教科書にも載っていて有名な秀吉の「バテレン追放令」は、天正15年(1587)6月19日付けで、国内のバテレン(外国人宣教師)に対して発布されました。20日以内に国外退去することを命じると同時に布教を目的としない往来は例外である、としています。日本人に対してキリスト教の信仰を禁じた命令書ではありません。
「バテレン追放令」は外国向けの命令書ですが、これの発布の前日、6月18日付けで、国内向けの命令書「キリシタン禁令」が出されています。11条からなっていて、ここでは1条目にキリスト教の信仰は自由である、と明記してあります(ただし、社会的地位による規制が他の条にあります)。
 この「キリシタン禁令」の10条目に「大唐・南蛮・高麗へ日本人を売ることは処罰にあたる。日本では、人の売買は禁止である」があります。秀吉は最終条で「牛馬を食うことはけしからぬ」などとも言っていますが、興味深いのは、秀吉はただ単に条令を発布するのではなく、それら条項については逐一、時のイエズス会日本副管区長コエリュに質疑しているということです(フロイス日本史)。
 コエリュは人身売買について「こちらも禁止したいが、日本人大名が売るのだからしかたがない」と答えています。戦の戦利品に敗者側の民衆が含まれるのは当時の常識でした。そういう姿勢のバテレンおよびポルトガル商人に対して秀吉は、「少なくとも今ポルトガル人の手にある日本人を解放せよ、対価を払う準備もある」と伝えています。
 これをもって秀吉の同胞愛を言い、禁キリシタンの大きな理由のひとつとする向きもあるようですが、私は、これについては、「対価を払う準備もある」の方に着目すべきだろうと思います。秀吉がここで考えていたのは、おそらく国際標準ルールの尊重であり、対等外交と国体・国力の保持でしょう。人と並べる誤解を恐れずに言えば、牛馬食についても、馬は荷物を運び戦場で仕えるために養育されたもの、牛は百姓の道具であるから、殺して食べるのは国内では駄目だ、と秀吉は伝えています。もっともコエリュは「馬は我々も食べない。牛食の習慣を止める事はやぶさかではないが、日本人が売りに来る以上確約はできない」と答えています。


『戦国史を動かした武将の書簡 (別冊宝島 2478) 』で、柴田勝家、豊臣秀吉、森長可、丹羽長秀、織田信長、島津義久、滝川一益、足利義稙の書簡について担当執筆しました。

 今年2016年1月に兵庫県たつの市で、賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な脇坂安治宛ての秀吉の朱印状が33通発見され、それについても書いたのですが、秀吉の天下統一事業の、特に実務の実際が垣間見える、たいへん興味深い史料でした。天正13年(1585)あたりのものを中心とした秀吉の33通は大発見で、新聞などでは、その中に「信長の時代とは違う」と書かれ信長を呼び捨てにしている書状が見つかったことで話題になりました。
 脇坂安治は当時、伊賀から京へ材木を運輸する役目を言いつけられていました。そのおかげで、越中北国攻めの軍勢からはずされていました。脇坂は秀吉に、北国攻めに出陣したい旨を申し出たようです。33通の中に、材木担当に任じたのに何事か、と秀吉が叱責する書状がありました。秀吉は別件別の書状でも、同じことに触れて叱責しています。
 秀吉はどうやらしつこくて細かい質というか管理姿勢をとっていたようです。集積地・下鳥羽に早く材木を着荷させるよう命じた短い書状の中では、材木の運搬水路にあたる地域の名をこと細かく上げ、その地域に荷が通過することを伝えて万事能率を高めるよう指示しています。
 材木は当時、城、付け城、柵、また鉄砲の鋳造用燃料として使われる最重要と言っていい軍事物資でした。大量の需要があり、大量に消費されます。それはもちろん運搬されねばならず、秀吉の天下統一事業のひとつには、水運流通網の、列島規模での整備がありました。秀吉が、材木運搬よりも戦での功績を求めた、いわば時代遅れの脇坂を叱責したのは当然だったと思えます。


「古代史再検証 『万葉集』とは何か」 (別冊宝島 2470) で、飛鳥京・藤原京・平城京の概説、聖武天皇治世と藤原仲麻呂、道鏡、大伴家持の半生、大宝律令と貴族体制などについて書きました。

「古代史再検証 『万葉集』とは何か」 (別冊宝島 2470) で、飛鳥京・藤原京・平城京の概説、聖武天皇治世と藤原仲麻呂、道鏡、大伴家持の半生、大宝律令と貴族体制などについて書きました。
 大宝律令は702年に文武天皇が諸国頒布した日本最古の成文法ですが、叙位および位階授与という制度が現在も生きているという点において、大宝律令は一部、千数百年後の今もなお効力していると言うことができます。正確には757年に改正された養老律令の位階制度が継がれているわけですが、養老律令の施行は藤原氏(仲麻呂)の政局操作の意味が強く、その中身は改正する必要の無い、つまり法令名が変わったくらいのことだったようです。
 養老律令が廃止された歴史はありません。一般的には明治維新までの存続とされるようです。平安のかなり早い時期に律令は形骸化したとされていますが、しかし、特に戦国の天下統一時期、幕末明治維新期には、この律令制度が政局変動の根拠とされ大いに活用されたように思います。
 で、この大宝律令・養老律令が、万葉集の現代的評価のひとつとして「貴族以外の民衆の歌が載っている(だから、すごい)」とされていることに大きく関係します。
 律令の大きな目的のひとつに地方行政の全国標準化がありました。地方役人は中央(つまり京(みやこ))から派遣され、律令で定められた権力と義務が与えられます。古代大陸の郡県制に範をとった地方官制の中央集権体制ということになりますが、これのおかげで京文化が地方に移植されることになります。山上憶良はぎりぎり貴族身分の筑前(今の福岡県あたり)の守で、大宰府の長官になった大伴旅人と筑紫歌壇という歌サロンをつくったのも律令の制度を大いに背景としています。そして、万葉集に収録されているいわゆる「民衆の歌」というのは、こうした地方役人が京の作法・手法をもって土地土地に伝わる歌を詠み直した歌なわけで、つまるところ万葉集はあくまでも京文化ということになります。万葉集をもって「日本は古来、帝から貴族、庶民にいたるまで同じように(または平等に)歌を詠み~」といった考え方はおそらく現代的に過ぎ、今にあっては浅い人権思想に落ちる危険があるように思います。


『坂本龍馬』 (洋泉社MOOK)で龍馬の生涯概説と、映像の中の龍馬、小説の中の龍馬、新選組との関係のコーナーを執筆しました。

『坂本龍馬』 (洋泉社MOOK)で、龍馬の生涯概説と、映像の中の龍馬、小説の中の龍馬、新選組との関係などについて書きました。龍馬の映画を調べていたら、戦前無声映画のお宝キャラクターだったことがわかりました。不勉強でしたが、阪東妻三郎も龍馬を演じるのが好きだったんですね。
 米国日本学者、マリアス・ジャンセンの『坂本龍馬と明治維新』(1961刊、1965訳書刊)を再チェックしたんですが、あらためて名著だと思いました。米国自由民主主義の肯定前提の研究書であるとはいえ、戦中のベネディクトの『菊と刀』もそうだと思いますが、結論に至るまでの、つまり結論はともかく、調査・分析は非常にフェアで勉強と参考になります。


「もっと知りたい! 真田丸」 (TJMOOK ふくろうBOOKS 宝島社)で「真田十勇士の謎」のコーナーを執筆しました。

「もっと知りたい! 真田丸」 (TJMOOK ふくろうBOOKS 宝島社)」で、6ページほどのミニコーナーですが、真田十勇士について書きました。
 ここで出てくる雪村も十勇士も架空の人物ですが、「真田十勇士」という名称が世に登場するのは大正2(1913)年。現代の方によっぽど近いヒーロー・キャラクターなわけです。ただ、その想像力の根っこは、夏の陣直後には歌われていたとされていますが、ともかく早い時期には流行っていたらしい「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退きたり加護島へ」の歌にあります。いわゆる「薩摩落ち」の伝説、秀頼も幸村も大坂の陣を生き延びた説もここから来ますが、それよりもこの歌は、当時の庶民がどれだけ秀頼に同情、または愛していたかの証拠になる歌だと見る方が面白いと思います。古来、時の政権を嫌って見るのがどうも日本の伝統のように思います。


「フランス映画祭 2016」公式サイト、「Talents Tokyo 2016」公式サイトがオープンしました。

2016年度で14回目の開催を迎える「フランス映画祭」の今年度オフィシャルサイトがオープンしました。Wordpressによるウェブサイト基礎建築、出力設計および設定ならびにコンテンツ運用を担当しております。フランス映画祭2016は、2016年6月24日(金)~6月27日(月)、有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇で開催されます。

http://unifrance.jp/festival/2016/

「フランス映画祭2016」公式サイト(WordpressによるCMS構築とコンテンツ運用を担当)

東アジアおよび東南アジアの若い映像作家、映画監督、映像プロデューサーを支援する「Talents Tokyo」の2016年度オフィシャルサイトがオープンしました。Wordpressによるウェブサイト基礎建築、設計・デザイン、コンテンツ運用を担当しております。

http://talents-tokyo.jp/2016/

「Talents Tokyo 2016」公式サイト(WordpressによるCMS構築、サイト設計・デザイン、コンテンツ運用を担当)


『大河ドラマ検定 公式問題集』(NHK出版)の編集と執筆に携わりました。

 平成28年2月25日発売の『大河ドラマ検定 公式問題集』(NHK出版)で編集と執筆を担当しました。大河ドラマの舞台となった各時代・時期の史実概説と年表・人物説明の編集・執筆、54作目「花燃ゆ」までの作品紹介を担当しました。
 大河ドラマは一部江戸期の中~後期をのぞき、平安末期から明治維新まで作品の舞台がありますから、史実概説を書くにあたって通して見直すことができ、あらためて勉強になりました。数千年にわたる、各政権予備群の朝廷勅命の獲得合戦がいわゆる日本史と言うこともでき、その点で言えば朝廷はいずれの時代にあっても究極の不偏不党の存在、誤解を恐れずに言えばブラックホールであったと言うこともできるかもしれません。それが揺らぎを見せる戦国期と明治維新期の特に長州征討期、そして現代というのは、やはりエポックなのだという気がします。


『朝ドラの55年―全93作品完全保存版』(NHK出版)の編集と執筆に携わりました。

 平成27年10月17日発売の『朝ドラの55年―全93作品完全保存版』(NHK出版)で編集と執筆を担当しました。
 1960~70年代の初期時代を中心に30作品強の解説と雑話、制作陣の取材記事を書いています。
 放送博物館所蔵の台本群やサービスセンター所蔵のグラフNHKのバックナンバーはきわめて興味深い資料でした。
 獅子文六、壺井栄、武者小路実篤、川端康成らの原作による文芸路線で始まった連続テレビ小説(朝ドラ)の初期作品群は、現在、その映像のほとんどは見ることができません。当時ビデオテープはあまりにも高価、上書きして使われて残っていないからです。
 原作とされる小説群にあたって情報を補強しましたが、その中では小さな新発見もあって勉強になりました。


「フランス映画祭2015」公式サイトがオープンしました。

2015年度で13回目の開催を迎える「フランス映画祭」の今年度オフィシャルサイトがオープンしました。Wordpressによるウェブサイト基礎建築、出力設計および設定ならびにコンテンツ運用を担当しております。フランス映画祭2015は、2015年6月26日(金)~6月29日(月)、有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇で開催されます。

≫「フランス映画祭2015」オフィシャルサイト


「源氏物語ファン」を公開しました。

源氏物語について考えていくサイト「源氏物語ファン」がオープンしました。平成27年春、旧正月の新月の晩に勉強会「国益追求会」でお話をした発表のまとめ「源氏は国民文学か」を掲載しています。源氏物語がお好きな方、ぜひご覧いただければ幸いです。
≫「源氏物語ファン」


サイトをリニューアルしました。

ウェブサイトをリニューアルしました。
上部メニューより、プロフィール、直近の執筆図書、直近の製作ウェブサイト、動画コンテンツをお知らせしておりますので、ご覧をいただければ幸いです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

平成27年3月吉日
尾崎克之